CSカリキュラム1年目2月第4週目
イエス様シリーズ「救い」
「迷い出た羊」
【タイトル】 迷い出た羊
【テキスト】マタイ18:12-14
あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。
このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。(同様の記事は、ルカ15:4-7)
【目標】
羊飼いであるイエスキリストの愛を知り、救いを理解する。
【概要】
この例え話に出てくる迷い出た羊は私たち人間のことです。
羊飼いはイエスキリストを指しています。
1、 羊飼いキリストは、迷い出た羊を愛をもって捜す救主です。
あなた方はどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。(12節)
人間の社会では、数の多いほうが正しいと扱われ、数の少ないほうは間違っているとして少数者の意見、立場などが切り捨てられて行きます。100匹のうち99匹の羊は安全である。1匹が迷子に なって帰ってきていない。多数決でいえば99対1ですから、「残念だがやむを得ない」と言って、1匹は捨てられても仕方がないということになります。人間 は少数の足手まといになる者を、どんどん切り捨てて行きます。
しかしイエス様は人を捨てることはありません。ひとり一人を助け、守る愛の救主です。
羊飼いは羊に一匹ずつ名前をつけ、一匹づつ名前を呼んで羊小屋から連れ出します。
羊は自分の名前を呼んでくれる羊飼いの声を聴き、それに従って行きます(ヨハネ10:3)。
このお話では、夕方、自分の家に連れ戻すために、羊飼いがいつものように名前を呼んだら羊が足りなかったのです。ふつうの感覚では、100匹のうちの1匹がいない。99匹は安全だ。もう日も暮れる、羊飼いも疲れている、明日になってから捜そうということでも良かったのです。しかし 羊飼いは一匹一匹に名前をつけて呼んでいます。羊飼いにとっては、「一匹」足りなかったのではなく、自分が名前をつけた、「愛するあの羊」がいないので す。かけがえのない、「愛するあの羊」が帰って来ていないのです。
そこで、羊飼いは99匹を他の羊飼いに見てもらって、もう暮れかかった野原へ羊を捜しに 出かけて行きます。「愛するもの」は大切です。「愛するもの」に代用品はないのです
羊は、羊飼いが愛をもって呼べば、愛をもって答える存在です。いのちのない物ではなく、羊は命ある大切な存在です。ですから、羊飼い は、愛する自分の羊を見つけるために、夕暮れであっても捜しに出かけているのです。
羊は目がよく見えず、自分で草や水を見つけることができず、獣に襲われれば簡単にその餌食になっ てしまいます。そこで羊飼いが羊を草や水のある所に連れて行き、獣から守ってくれるのです。
ところがこの羊は羊飼いの許を離れて迷子になっています。
自分の力 に頼って、おいしい草を求め、もっと先に、自分の欲望を満たし、自分の思い通りになる所があるに違いないと考えたからです。ふと気づいたら夕暮れになり、 冷え込んできたが、仲間はいない、群れを導く羊飼いもいない、獣が出て来るかも知れないことを知り、たまらなく孤独を感じたに違いありません。
人間は創造主であるまことの神様から離れ、不信仰になっています。
神様を信じない者の心にあるのは孤独と不安だけです。勝手に羊飼いの許を離れ、迷子になっている羊は切り捨てられても文句が言えないのです。
だが、羊飼いは愛の故に羊を捜しに出かけています。神様に背き、不安と孤独の中にある人間を救うために、イエスキリストは神の独り子であることをやめて、天の栄光の位を捨てて人間となり、私たちを捜しだすために地上に-来て下さった救主です。
イエス様は、迷い出た羊をあらゆる方法を通して捜し出して下さる愛の救主です。
2、羊飼いキリストは、迷い出た羊を捜し出して喜ぶ救主です。
もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい。迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。そのように、これらのもっとも小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなた方の父のみこころではない。(13-14節)
羊飼いは、何キロも羊の足跡を辿り、危険を冒して急な坂道や崖っぷちに行き、羊を捜し出します。それだけの苦労をして捜し出すので、見つかった時に は大喜びです。留守番をしている他の羊飼い達は、捜しに行った羊飼いが戻って来るのをずっと待っています。疲れ果てた羊を肩に担いで、羊飼いが無事に山道 を急いで帰ってくる姿が見えると、皆で歓声をあげて出迎えます。
私たちは迷い出た羊です。
「私は迷うなんていうドジなことをしません。私は99匹の中にいました」と言える人は誰もいません。私たちは人間は、「われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向って行った」愚かな者です。(イザヤ 53:6)。勝手に愛の神様の御許を離れ、サタンの導く罪の道をたどり、一直線に滅びに向かってしまう者です。
滅びに向かい、地獄に堕ちて行く私たちのために、十字架に上って私たちの罪の身代りになり、罪を滅ぼして下さったのはイエス様です。
何故なら、「罪の支払う報酬は死」です(ロマ6:23後半)。そこでイエス様は罪の闇路をさ迷い、地獄に堕ちて行く私たちのために、体を張って十字架の上に命を捧げ、救いを与えて下った真の良い羊飼いなのです(ヨハネ 10:11)。
私たちは、神様の心よりも自分の思いを第一にしてしまう時があります。
また知らない間に、自分の判断で神様に喜ばれないことをして罪を犯してしますこともあるのです。
自分で正しいものを選んでいるつもりで、神様の声を聞かずに道からそれてしまうことがあるかもしれません。でも、イエス様は、そんな時も私たちを探して助け出してくださる方なのです。
3、イエス様の愛とは?
1)イエス様はあなたを個人的に愛しておられます。
99匹は安 全である、だが返事のない1匹は山で迷っているに違いない。その1匹を捜し出して、100匹全部が揃わなければ、羊飼いは気が安まることがありません。あなた一人が迷い出ても、あなたのためだけに、命がけで探しに来て下さるお方です。
2)イエス様は忍耐強く愛してくださいます。
本当は羊が自分勝手な方向に迷って行ったので、羊が悪いのです。
しかし羊飼いは羊を責めずに、その救いのために全力を注ぎました。
暗くなり かけた山道を一歩一歩踏みしめながら、忍耐強く羊を捜し歩いています。あちこちを注意深く見回しながら、そして羊の助けを求める鳴き声を聞き漏らすまいと して、耳を澄ましながら捜し歩いています。
3)イエス様はこの愛を誰かにも伝えることを願っておられます。
アフリカ大陸を横断し、アフリカでの奴隷解放へ向けて尽力した宣教師リビングストン(1813-1873) は、学力優秀でしたが、説教の時に顔が赤くなり、言葉がうま く出なくなるので、なかなか宣教師試験に合格できなかった。しかし彼は宣教師になる決意を変えずに、誰も志願しないアフリカ大陸に行く事を決意します。当時アフリカはまだ暗黒大陸と言われ、白人が大勢の現地人を武力で脅し、奴隷として捕らえて行った時代です。その困難なアフリカ大陸に、彼は宣教使として入 り、イエス様の救いを伝え、同時にアフリカの実状を世界に知らせる働きをしたのです。そして、最後は草のベッドからずりおちたて祈ったままの姿で、60歳 で天国へ召されて行きます。彼の遺体はイギリスに運ばれ、王族の墓所であるウエストミンスター寺院に葬られています。彼がイエス様の愛をもってアフリカに 仕えたことはムダにならずに、多くの後継者が起こされ、福音が伝えられ、奴隷が廃止され、アフリカは発展しています。イエス様の愛を伝えた時に、彼の心は 燃え、その愛は心から心に伝わって行ったのです。
【まとめ】
1、羊飼いはイエスキリストです。
キリストは迷い出た羊である私たちを、愛をもって命がけで捜しだし、救いの中に入れて下さいました。
2、羊飼いであるイエスキリストは私たちを捜し出して喜んで下さる救主です。
個人的に名前を呼んで私たちを捜して下さいました。忍耐をもって、耳を 澄まして私たちの叫び声を聴いて、助けの手を伸ばして下さいました。
3、イエス様から受けた愛を他の人に伝えて行きましょう。