CSテキスト3年目3週目

教理シリーズ「救い」

出典元(こひつじ)

 

 

「救い1」

 

テーマ   イエス様の十字架

テキスト   ローマ5:8-9

参照箇所   使徒4:12、ローマ10:10

暗唱聖句 ヨハネ316

 

導入   みなさん、手が泥だらけになって汚れたら何で洗いますか?そう、石けんで洗いますね。髪の毛は何で洗いますか?そう、シャンプーを使います。外で遊んで洋服がどろんこになったらどうします?そう、お洗濯をしたら大抵のものはまた綺麗になり元に戻ります。でも私たちの心が汚れてしまったら、取り出してお洗濯することはできません。一体どうしたらいいでしょうか?   

 

   私たちは罪人です(:8

 小さいことも大きなことも、悪いことはいけないことです。聖書には、「全ての人が罪をおかした」って書かれています。

お友だちに意地悪をしたり、悪口を言ったり、ウソをついたりしたことはありますか?

先生もイエスさまを信じる前は平気でそんなことをしていました。そしてそれを罪だと神さまは教えます。それらは警察につかまったりはしないかもしれません。でも、罪は私たちの心を汚して広がっていきます。 本当はみんな仲良くしていきたいと思うのに、どうしてケンカをしたり悪口を言ったりしてしまうんだろうねぇ。泥棒はダメだってみんな知っているのに、どうして泥棒をする人がいるんだろう。小学生でも借りたものを借りっぱなしでぱくってしまう「カリパク」をしたり、中学生や高校生も万引きをしたりします。どうして私たちはだめだと思っていることをしてしまうんだろうね。

 

本当の罪

実は、罪には「的外れ」っていう意味があります。正しいところからずれて、まちがったところにいることを言います。電車が線路からずれて脱線したら大変です。行きたいところに行けませんし、乗っている人が大けがをするかもしれません。金魚が水槽から跳び出して水の外に出たら大変です。苦しくて生きていけません。本来いるべきところにいないこと、「的外れ」のことを「罪」って言うのです。私たち人間は、神さまによって造られました。だから神さまと一緒に生きていくのが一番幸せなのに、神様から離れてまちがった生き方かをすることを「罪」って言います。けんか、悪口、いじめ、盗み、意地悪、無視・・・子どもも大人もそういう罪の中で生きているって、悲しいよねぇ、苦しいよねぇ。神さまは神さまだから、私たちのことを何でも知っておられるから、誰が見ていなくても、私たちの良いことも悪いことも全部知っておられます。   

 

  神さまは私たちを愛しています

 

 私たちの罪を全部知っている神様は、そんな罪をもった私たちのことをどう思っているでしょうか?

 

学校で工作をしたことがあるよね。みんなが心を込めて一生懸命に作ったものは、とっても大切にするよね。男の子だったらプラモデルとかも好きでしょう。もし壊れたりしたら、大事に直すよね。・・・私たちはプラモデルとか以上に、神さまによって愛されて造られました。今までたくさんの人が世界中にいたけれど、2人といない最高傑作として神さまが私たちを造ってくれました。神さまは罪を持った私たちのことを嫌いなることなく、私たち1人1人を愛しておられます。神さまはみんなを愛することをやめることができません。私たちを愛し、罪に苦しんで生きて欲しくないから、罪から救い出すためにイエスさまを送ってくれたのです。

 

  罪を解決するためにイエスさまは死んで下さいました(8-9) 

 

神さまは罪を解決するために、神さまのひとり子、イエスさまを私たちのもとに送られました。

 

本当は私たちが自分の罪のために罰を受ける必要があります。

でも罪のないイエスさまが、私たちの罪を背負って私たちの身代わりとなって十字架にかかって下さったのです。

 

私たちは自分で自分の心の中をきれいにすることはできません。神の子であるイエスさま、何一つ罪のないイエスさまが、私たちの代わりに罰を受け十字架にかかってくださり、「父なる神さま、彼らをおゆるし下さい」と祈ってくれました。それは命をかけてまでも私たちを救いたいという神さまの愛のしるしです。このイエスさまを信じるとき、イエスさまの十字架のゆえに私たちの罪はゆるされ、罪で汚れた心がきよくされるのです。そしてイエスさまは十字架にかかって死なれただけではなく、3日目によみがえられ、信じる私たちと共におられます。このイエスさまの命がけの愛を知り、イエスさまと一緒に生きていくなら、罪をおかすことが嫌になり、天国への道を歩んでいくことができます。

 

例話1)「塩狩峠」三浦綾子   三浦綾子さんという作家が、明治時代(1909 年、今から 100 年ぐらい前)にあった北海道での出来事を小説にしています。それは札幌行きの汽車が塩狩峠にさしかかった時、なんと一番後ろの車両の連結が外れ、逆走し始めたのです。乗り合わせた乗客は騒ぎ始めました。その時、クリスチャンの青年が線路に身を投げ出して列車をとめ、乗客を脱線事故から救ったのです。塩狩峠には、今もその碑が立っています。

 

身代わりの例話2)洞爺丸    1954 9 26 日、函館を出帆した洞爺丸は台風のために船が横転し、1000 人を越える方々が亡くなりました。その中に 3 人の外国人宣教師が乗っていたそうです。その中の1人は救命具のひもが切れたと泣いていた女性に、「ソレハコマリマシタネ。ワタシノヲアゲマス」と自分の救命具をはずしたそうです。そして「アナタハ、ワタシヨリワカイ。ニッポンハワカイヒトガ、ツクリアゲルノデス」と言ったそうです。自分の救命具を譲った宣教師は、大きな波にのまれて帰らぬ人となりました。後年、来日した宣教師の息子は、父親がまったく泳げなかったという事実を語ったそうです。

 

結論

 

  十字架のイエスさまを信じるとき、私たちの罪はゆるされ、きよめられ、救われます。      イエスさまは私たちの救い主です。

 

今日のお話しを聞いて、みんなの心の中に隠している罪はありませんでしたか?神         さまは私たちの心の中をすべてご存知です。そしてあなたが罪の罰を受けなくてもいいように、イエスさまはすでに身代わりとなって十字架にかかって下さいました。「OOくん!あなたに地獄にいってほしくない!そのために私が代わりに罰を受けるよ!」そう言ってイエスさまは命を投げ出して十字架にかかって私たちの代わりに罰を受け死なれました。そして3日目に甦って、信じる私たちと共にいてくれます。今日イエス・キリストを自分の救い主として信じ受け入れ永遠(天国)の命をいただきましょう。

 

イエスさまを信じたら、たとえケンカをしても、イエスさまは愛のお方だから友だちと仲直りする力を与えてくれます。イエスさまは優しいお方だから、仕返しをしたいと思う時にも、お兄ちゃんやお姉ちゃん、弟や妹にも優しくすることができるように変えられていきます。イエスさまは本当の力をもっているので、見て見ぬふりをするのではなく、いじめられている子の味方になる力を与えてくれます。イエスさまを信じると罪がゆるされ、イエスさまの心を持つことができます。イエスさまを救い主として信じていきたいと思う人はいますか?


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