CSテキスト3年目第4週目

教理シリーズ「救い」

出典元(こひつじ)

 

 

「救い2 本当の祈り(悔改める祈り)」

 

タイトル   本当の祈り(悔い改める祈り)

テキスト   ルカ 18:9-14

参照箇所   I サムエル 167I コリント 12629、ピリピ 2:3、ヤコブ 46I ペテロ5:6

 

導入 

「お友達があなたに何かをお願いするとき、えらそうにお願いしたらあなたはどう思いますか。神様はこころを見ておられます。どんなこころで祈ると神様は喜ばれるでしょうか。イエスさまがたとえ話で教えて下さっています。」

 

教師メモ☞人は姿を見ますが神様は心を見ておられる(1 サムエル 16:7

誰も気がついていなくても、神様はすべて知っておられることを子供たちに気づかせられると感謝です。

 

教師メモ✎「祈る前から知ってくださる神様(マタイ6:8)」「隠れたことを見ておられる神様(マタイ 6:18)」

 

  パリサイ人は神様にお祈りをしました   

人はすべて罪人ですから、自分は正しいと思いがちです。自分の欠点はなかなか気がつかないものです。パリサイ人は「自分は正しいと思っている典型例」です。表面的には聖書の教えを守り、断食をしていますが、こころは神様から離れていたのです。

 

教師メモ☞

パリサイ人のことを学ぶ時に「他人事」で終わらせないように留意してください。私たちは誰もがパリサイ人のようになりがちなのです。そのことに気がつくことができるように導いてください。自分の罪に気がつかなければ、悔い改め(方向転換)をすることが出来ませんから。

 

 教師メモ

「パリサイ人とは」・・・パリサイ派の最大の特徴はその厳格な律法主義にある.彼らは律法を厳格に解釈し,それをできるだけ忠実に実行しようとした.彼らの律法解釈はやがて複雑な体系となり,「父祖の伝承」として口伝を形成するようになる.反対者たちは,これを「律法に垣根を巡らす者」として非難した.彼らは儀式律法的なきよめをさまざまな形で実行した(マコ734).彼らは,このような儀式的きよめの律法を守らない者を「地の民」(アム・ハアレツ)と呼んで軽蔑した.新約時代のユダヤ教の中には,エッセネ派やクムラン宗団のような厳格派がほかにも存在したが,主イエスの宣教において最大の敵となったのはこのパリサイ派の律法主義であった(マタ2325).

 

  取税人も神様にお祈りをしました   取税人も神様にお祈りをしました  

取税人は「自分が神の前に正しくないこと」を知っていました。それは自分が人々にしていた悪いことに気がついていたからです。そしてすべてを見ておられる神様に心から「赦して欲しい」と求めたのです。このようなへりくだったこころを神様は喜ばれるのです。

 

教師メモ☞

自分のしてしまったことを悪いことだと気がつかない子がいます。善悪の基準を知らないでいる場合があります。

教師メモ☞

自分の過ちに気づいている子もいます。取税人は自分が人をだましていたことに気がついていました。人から見られていなくても、良いことも悪いことも父なる神様は見ておられることに気がつくように導いてください。

教師メモ☞

自分のしてしまった悪いことをごまかす子もいるでしょう。神様が見ておられ、すべてをご存じであることを知らせることが大切です。悪いことをごまかす人よりも、認めて謝る人のほうが正しく強い人なのだと伝えましょう。そして素直に謝る人が神様に喜ばれます。

教師メモ✎

「取税人とは」取税人は正規の官吏ではなかった.彼らはしばしば不正を働いたために,罪人(マタ91013),遊女(マタ2131),異邦人(マタ1817)と同一と見なされた.主イエスは,人々に忌み嫌われていた取税人をも救い,彼らと共に生活されたのである(マタ9913,マコ21317,ルカ19110).

 

  イエス様は取税人の祈りが本当の祈りだと言われました

 

イエス様は取税人が義(正しい)と言われました。収税人は自分が罪人であることを認め、正直に言い表しました。このようなへりくだった祈りが本当の祈りなのです。立派な言葉で祈ることではありません。

「神様は身分を低くする人を高くしてくださるお方(1ペテロ5:6)ですから、たとえ上手く言葉で祈れなくても、心からへりくだった正直な祈りを、神様は喜んでくださるのです。

 

[証し]

一人のお友達は、小さいときから教会に行きましたが、罪が良くわかりませんでした。ある日、自分よりも勉強のできる親友が引っ越すことを知りました。彼女は親友が引越ししてしまう悲しみよりも、「自分の成績の順位が一つ上がる」ことを喜んでしまったのです。その時、自分はなんて悪い人間なんだろうと気づき、悲しくなりました。そんな時イエス様の言葉「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです(マタイ9:13)」が心にスーッと入ってきて、自分の罪が赦されることを体験し、主に感謝を捧げたのでした。

 

十字架で救われた男

ルカ23:26-49 に、イエス様と一緒に十字架で処刑された男がでてきます。二人の罪人のうち一人は、イエス様のことをバカにしました。しかし、もう一人の犯罪人は、「お前は何を言ってるんだ。おれたちは自分がした悪いことのために十字架につけられたんだ。でも、この方は悪いことを何もしていない」と言いました。それからその人は、イエス様に向かってお願いをしました。「イエス様。天国にいらっしゃったら、私のことを思い出してください。」この人は、自分がした悪いことを認めて、イエス様を救い主だと信じたのです。イエス様はその人に、「あなたは今日わたしと一緒にパラダイスにいます」と約束なさいました。イエス様を救い主と信じるならば、どんなに悪いことをした人でも、心からおわびをすれば無条件で赦され、主と共にいることができるのです。私たちが罪赦されて救われるのは、自分が罪人であることを認めて、イエス様に心から悔改めることによるのです。

 

結論 

 神様にお祈りをするときには、こころから正直にへりくだってお祈りしましょう 

皆さんのまわりにいつもいばっている人はいますか。自分は立派だと、人を見下している人はいますか。いくらその人ができない人と比較して自分が立派だと思っても、それ以上の人が来たら、かんたんにその自慢するこころ(自信)はなくなってしまいます。イエス様は一番のお方ですから、イエス様の前でいばることはできません。神様を見上げると、自分の罪が分り、へりくだることしかできません。しかし正直に、自分の罪を告白して神様に近づこうとする人を神様は高くしてくださるのです。そしてそういう人のお祈りを神

様は喜んでくださるのです。


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