2年目10月第5週目「教理」イエス

参照参考元:銘形秀則「牧師の書斎」

an east window

 

王であるイエス・キリスト

~王の王、主の主イエス

 

 

イエス・キリストとは、イエスが名前で、キリストが名字と思っている人がいるかも知れませんが、「イエス」は名前ですが、「キリスト」は名前でなく称号です。

 

ではキリストという称号にはどんな意味があるのでしょうか?「キリスト」には、

①預言者

②王

③大祭司

の意味がありますが、今回は王としての意味でのキリストを取り上げて、イエス様がどんな方として聖書に書かれているかを学んでいきましょう。

 

そもそも、なぜ「キリスト」が①預言者 ②王 ③大祭司 の称号なのかというと、「キリスト」は別の呼び方では「メシヤ」ともいい、「油注がれた者」という意味があります。

 

聖書で油注がれることは特別な意味があり、それは預言者と王と大祭司だけに行われたことです。

つまり、「油注がれた者」キリストとは、この3つの称号を持ち、またそれぞれの役割において完成者であることを示しているのです。

 

別の言い方をすると、「キリスト」は、真の預言者であり、真の王であり、真の大祭司として来られた方を指し示しているのです。

 

今回は王であるイエス様について学んでいきましょう。

 

1、私たちがイメージする「王」

 

王という言葉はどんなイメージを私達に描かせるでしょうか?

イスラエルは最初王さまを持っていませんでした。神はイスラエルに王を置くことを良しとしていなかったからです。

それはにはいくつかの理由がありました。

 

1,神ご自身が王なる方であるので、神の民であるイスラエルには人間の王は必要なかったのです。

 

 神は、ご自身とご自身の民であるイスラエルの間にいかなる支配者を置くことを望まれませんでした。ただ、神と民の間をとりなす祭司だけがいるだけでした。民は神からの声を祭司を通して聞き従う存在として、神ご自身に信頼することが本来の姿だったのです。

 

2,神は、人間が王となる時に必ず問題が起こることを知っておられたからです。

 

人間は堕落していらい罪の性質を持つようになりました。罪の下にいる人間はどんなに優秀な人物でも真の王の心をもつことがないのです。

しかし、ある時イスラエルの民は王がほしいと言い始めました。周りに国を見回した時、優秀で力のある人物が王として君臨し、国を強くし、繁栄させている様子を知ります。そして、目に見えて自分たちを幸せにしてくれそうな、魅力的な人物を王として立てるならば、自分たちも繁栄し、強い国になって戦いの心配もなくなると思ったのです。とうとう、祭司のサムエルに対し「王」がほしいと叫びはじめました。

 

それに対し、神様は彼らの言うことを聞き入れました。ただし、その前にイスラエルに対して警告を与えられたのです。

 

Ⅰサムエル8:4-22

4この時、イスラエルの長老たちはみな集まってラマにおるサムエルのもとにきて、5 言った、「あなたは年老い、あなたの子たちはあなたの道を歩まない。今ほかの国々のように、われわれをさばく王を、われわれのために立ててください」。6 しかし彼らが、「われわれをさばく王を、われわれに与えよ」と言うのを聞いて、サムエルは喜ばなかった。そしてサムエルが主に祈ると、7 主はサムエルに言われた、「民が、すべてあなたに言う所の声に聞き従いなさい。彼らが捨てるのはあなたではなく、わたしを捨てて、彼らの上にわたしが王であることを認めないのである。8 彼らは、わたしがエジプトから連れ上った日から、きょうまで、わたしを捨ててほかの神々に仕え、さまざまの事をわたしにしたように、あなたにもしているのである。9 今その声に聞き従いなさい。ただし、深く彼らを戒めて、彼らを治める王のならわしを彼らに示さなければならない」。10 サムエルは王を立てることを求める民に主の言葉をことごとく告げて、11 言った、「あなたがたを治める王のならわしは次のとおりである。彼はあなたがたのむすこを取って、戦車隊に入れ、騎兵とし、自分の戦車の前に走らせるであろう。12 彼はまたそれを千人の長、五十人の長に任じ、またその地を耕させ、その作物を刈らせ、またその武器と戦車の装備を造らせるであろう。13 また、あなたがたの娘を取って、香をつくる者とし、料理をする者とし、パンを焼く者とするであろう。14 また、あなたがたの畑とぶどう畑とオリブ畑の最も良い物を取って、その家来に与え、15 あなたがたの穀物と、ぶどう畑の、十分の一を取って、その役人と家来に与え、16 また、あなたがたの男女の奴隷および、あなたがたの最も良い牛とろばを取って、自分のために働かせ、17 また、あなたがたの羊の十分の一を取り、あなたがたは、その奴隷となるであろう。18 そしてその日あなたがたは自分のために選んだ王のゆえに呼ばわるであろう。しかし主はその日にあなたがたに答えられないであろう」。19 ところが民はサムエルの声に聞き従うことを拒んで言った、「いいえ、われわれを治める王がなければならない。20 われわれも他の国々のようになり、王がわれわれをさばき、われわれを率いて、われわれの戦いにたたかうのである」。21 サムエルは民の言葉をことごとく聞いて、それを主の耳に告げた。22 主はサムエルに言われた、「彼らの声に聞き従い、彼らのために王を立てよ」。サムエルはイスラエルの人々に言った、「あなたがたは、めいめいその町に帰りなさい」。

 

このあとの歴史を見ると、神さまの警告されたようになりました。あのソロモン王でさせ、民に重税を科せ、民に重荷を背負わせるようになり、イスラエルの民は非常に苦しむことになります。

 

 

2,真の王、王の王として来られたイエス

 

「イエスはキリストです」つまり、「イエスこそ神の国を統治する王」として来られました。

 

エペソ2

 1:20神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、 1:21彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。 1:22そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。

 

聖書には、イエスを「ダビデの子」と呼んだ者たちが登場しています。「ダビデの子」という称号は「王なるメシア(キリスト)」の称号です。彼らがイエスを「ダビデの子」と呼んだのには深い意味があります。

 

マタイによる福音書

 

- 9:27 二人の盲人 「ダビデの子よ」と叫びながらイエスについてきた。

- 15:22 カナンの女 「主よ、ダビデの子よ」

- 20:30 盲人 「ダビデの子よ、わたしを哀れんでください」

- 21:15  こどもたち「ダビデの子に、ホザナ」

- 22:42 パリサイ人「キリストは誰の子か」「ダビデの子です」

 

それは、もともとダビデに対して神が与えた契約に基づいています。ダビデの子」という称号がメシアを指すようになったのは、神がダビデに、「あなたの子孫が永遠の王国を確立する」と約束したことにあります。これは「ダビデ契約」と言われるものです。以下がその契約です。

 

 

  Ⅱサムエル711・・・

  【主】はあなたに告げる。『【主】はあなたのために一つの家を造る。』

  12 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。14 わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。15 しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。16 あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」

 

11節の『【主】はあなたのために一つの家を造る。』の「家」とは、ここではダビデの住む家のことではなく、ダビデの子孫、ダビデの王族としての家系を意味します。実際的には、ダビデから生まれる世継ぎとしての子孫(単数)、ソロモンよりもはるかに勝る王であるイエス・キリストがその視野に入っているのです。これが「ダビデ契約」と言われるものです。

 

ですから、聖書ではキリストが王として来られること、そしてその王国は永遠に続くものであることが約束し、ある人々はイエスこそが待ち望んだキリスト、真の王であると信じたのです。ただし、最終的にイスラエル(ユダヤ人)は、他の預言者を拒んだと同じようにイエスをもキリストとして認めず、拒むことで十字架につけてしまいました。

 

 

3,真の王の姿

 

御子イエスは天地創造の前から「王の王、主の主」であったが、地上において神と等しくあろうとは求めず、しもべのように父なる神とご自分の民に仕える者となられた方でした。(前回で学んだように)

 

ピリピ2:6-9

 2:6キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 2:7かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 2:8おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。 2:9それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。 2:10それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、 2:11また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。

 

一方で、イエスが来られた当時のユダヤは、大祭司を頂点とするガチガチの宗教制度のシステムと同時に、異邦人の支配、つまり強大なローマ帝国の支配の下で人々が苦しんでいました。そうした時代の背景の中で、イエスという方はまさに神によって油注がれた王として、「鉄の杖」をもってこの地上に神の王国を打ち建てるために来られた方であると、群衆も弟子たちも次第に信じるようになりましたが、それは彼らはメシアにしかできない奇蹟の数々をイエスの中に見たからです。ですから、たとえユダヤ人の古い宗教的支配体制がどれほど強固であったとしても、また、ローマ帝国の支配体制がどれほど強大であったとしても、主イエスにおいて現される神の力によって、それらは必ず覆されると信じるようになっていたのです。ですから何よりもまず、ローマを打ち倒してくれる力ある王なるメシアを待ち望んでいたのです。

 

しかし、聖書が示している王のイメージは違います。

聖書では、王なるメシアとその民との関係が、イスラエルの牧者と羊の関係にたとえられています。エゼキエル書34章にはそのうるわしいかかわりが示されています。本来、この34章は、イスラエルの民の上に立てられた指導者たちが牧者としての責任を果たさずに、自分たちの私腹を肥やしていたことが責められています。そこで神は自ら真のイスラエルの牧者となるという約束がなされているのです。

11節に、「見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする」とあります。この約束を実現するために、御父は御子イエスがこの地上に遣わされたのです。その預言が以下のみことばです。

 

ここに見るイスラエルの牧者の羊に対するイメージは、まさに至れり尽くせりの「ねんごろな配慮」です。これが王なるメシア王国の統治のイメージです。この王なるメシアは昔も、そして今も「失われた(滅びた)羊を捜して」おられるのです。個人であっても、あるいはイスラエルの民のように民族的単位であっても、神にとってはその配慮は何ら変わりません。「人の子(イエス)は、失なわれた人を捜して、救うために来た。」(ルカ1910)のです。そしてエゼキエル34章にイメージされている王国が建てられるのです。

 

勿論、御子イエスは地上においても、真の意味で「王」であり続けました。しかしそれは決して民が自分勝手に求めていた王(ヨハネ6:14-15;26参照)ではなく、地上の権力者に全く動じることなくひたすら真理に仕え、真理を証しする、御心に適った王でだったのです。

 

 預言者サムエルは民に対して、王が課すことになる「重いくびき」について警告し、その「重いくびき」の故に民が助けを求めても主は答えないだろう、と警告しました。それでも民はサムエルの言葉に耳を傾けず、王を求めました。そしてイスラエルの民の歴史は、サムエルの警告が間違っていなかったことを証明してしています。何より、罪びとが真の王が統治することを拒み、十字架に架けて殺したことが、その罪深さを示しているのです。

 

しかしそのような頑な人間に対して、神の憐みは絶えることはありませんでした。真の王である御子を遣わして、不信の罪の重いくびきからの解放を約束してくださっているのです。

 

マタイ11:28-30

28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。29 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

 

この世の支配者は、結局自分の欲のために支配しようとします。今の世界を見てもそれがよくわかります。しかし、今、イエスは王の王として神の御座におられるです。そして、将来、イエス様が再臨されるときには、この方が私達の王としてこの世界を支配してくださるのです。その方は、人間の支配者のように支配されるのではありません。私達を愛し、私達のためにすべてを惜しまず与えて養ってくださる羊飼いの心を持って治める神の国の実現を成就してくださるのです。

 

この方、主イエス・キリストを信じ、信頼し、待ち望んでいきましょう。

 

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