CSテキスト2年目11月第1週目

教理シリーズ「救い」


「罪と悔い改め」


【テキスト】

ルカ15:1-7

15:1 さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。

15:2 すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」

15:3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。

15:4 「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。

15:5 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、

15:6 帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。

15:7 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。


【目的】

救いの学びのはじめには、人間がなぜ救われなければならないかという学びが必要です。人間の罪について知らない人が、救いを理解することはできないからです。罪と同時に赦されることを知ることも大事です。神は、たったひとりの罪人でも、自ら捜し求めてくださり、その罪人が悔い改めるなら最高に喜んでくださるお方です。子供たちが、人間の罪の問題も知り、素直に「私も罪人です」と認め、、同時に神の愛もしっかりと受け取ることができたら感謝です。


【導入】 

イエスさまは、取税人や罪人たちと親しくされました。イエスさまは、彼らのそば近くで話をされ、食事さえも一緒にされました。しかし、パリサイ人や律法学者たちは、そのことが気に入りませんでした。彼らは、律法を守っている自分たちだけが、神さまに受け入れられるにふさわしいと思っていたからです。。


イエスさまは、そんな自信満々な彼らに、例え話をして、間違いを指摘しました。 


1 人間は、神さまからはなれてしまいました(人間の罪について)


あるところに、100匹の羊を飼っている羊飼いがいました。そのうちの1匹がいなくなってしまいました。 

羊は、人間をあらわしています。100匹の羊をもっていた羊飼いとは、神さまのことです。もともと人間

は、神さまに造られたので、神さまのものでした。羊が羊飼いのものであるように、人間は神さまのもの

でした(エゼキエル34:11–16)。 


羊は、羊飼いに愛されます。えさをもらったり、安全に休ませてもらったりします。それなのに、1匹の羊

が羊飼いのところから、いなくなってしまいました。


罪はどこから・・・

人間(アダムとエバ)も、はじめはエデンの園で、創り主である神さまとの自由で平和な交わりの中に生かされていました。しかし、人間は、神さまに反抗して、罪を犯し、神さまから離れてしまいました。人間は、神さま中心ではなく、自己中心に生きるようになったのです。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った」のです(イザヤ53:6)。


その結果として、ローマ3:23に「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」とあるように、すべての人が罪人となったのです。人間は、だれでも・ひとりひとりが罪人なのです。


2 神さまは、ひとりひとりを愛してくださっています(神の愛について)


1匹の羊を失った羊飼いは、どうしたでしょうか。

他の99匹の羊たちを野原に残して(おそらく他の羊飼いに預けて)、1匹の羊を捜しに出かけました。

羊飼いは「谷に落ちてケガをしていないだろうか」「オオカミに食べられはしないだろうか」「お腹がすいただろう」「寒くて眠れないのでは」と逃げていった羊のことを心配したでしょう。危険をおかし、時間も体力も犠牲にして、一生懸命捜しました。「見つけるまで捜し歩」いたのです。


それは、羊飼いにとって、1匹1匹どの羊も大切だったからです。 

神さまは、私たちを愛してくださっています。1匹のために99匹をおいていくなんて、不釣合いと思うかもしれません。

しかし、神さまにとっては、それほどまでに、ひとりひとりが特別に大切なのです(イザヤ43:4)。


人間は、罪人です。しかし神さまは、律法学者たちのように「そんな自分勝手な罪人は、放っておけばいい」「言うことを聞かない羊が谷に落ちて死ぬのは当然の報いだ」というような非情なお方ではありません。

神さまは、神さまから離れてしまったひとりの罪人を、助けるために、捜してくださっているのです。 


3 神さまは、罪人が悔い改めることを喜んでくださいます(悔改めについて) 


羊をみつけた羊飼いは、大喜びでその羊をかついで帰り、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集

め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言います。イエスさまは、「ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるので

す」とおっしゃいました。律法学者たちは驚いたでしょう。イエスさまは正しい人と一緒にいて喜ばれるの

ではなく、罪人がイエスさまのところに帰ってくることを喜ぶとおっしゃったのです。


イエスさまは、「正しい人を招くためにではなく、罪人を招いて悔い改めさせるために来たのです」(「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です」ルカ5:31-32)。

 

「悔い改める」とは、罪からはなれて、神さまに立ち返ることです。


私たちは、みんな罪人です。

神さまに造られたのに、神さまからはなれて自己中心に生きて来ました。それを神さまに「ごめんなさい」と言って赦していただき、神さまのところに帰ることです。私たちが悔い改めるとき、神さまは、必ず罪を赦してくださいます。


それどころか、大喜びで迎えてくださいます。「わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ」(エゼキエル33:11)とあるとおりです。 


悔改めれば救われるというのは、何か人間の行動が主導のように感じてしまいますが、そうではありま

せん。悔改めは、神さまがはじめてくださった救いの働きに対する、人間の応答です。


神さまが、まず私たちを救うために、捜し求める愛を示してくださいました。救いは、神さまが主導してくださった恵みの働きであり、悔改めは、それを受ける応答です。 



【質問例】

1、 このお話の中で「羊」とはだれのことを表していますか?「羊飼い」とはどなたのことですか?


99匹の羊 (       )

1匹の羊 (       )

羊飼い (       )


2、 羊飼いは、一匹の羊がいなくなったとき、どうしましたか?



3、 神さまはどのようなお方ですか?

(   ) ひとりの罪人が素直に悔い改めるのを最高に喜んでくださる。

(   ) 見つかるまでさがしだすほどに、わたしたちひとりひとりを大切に思っていて下さる。

(   ) 人数が多い方を大切にしてくださる。

(   ) ひとりの罪人を放っておいて、99人のクリスチャンを守ってくださる。


4、イエス様にとって最高の喜びは、ひとりの罪人が悔い改めることです。

あなたも自分中心から、イエスさま中心の生き方に改めましょう。

 お祈りしたいことはなんですか?



参考:日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団 教会教育部公式サイト