CSカリキュラム1年目3月第2週目

 

「良いサマリヤ人」

 

【タイトル】 良いサマリア人

 

【テキスト】 ルカ10:30-37

 

10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」

10:26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」

10:27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」

10:28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」

10:29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」

10:30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。

10:31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

10:33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、

10:34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。

10:35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』

10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」

10:37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

 

【目標】 

神の律法の本質を知る

 

【導入】

 人々はよくイエス様に質問をしました。ある時、こんな質問をしました。「イエス様、いちばん大切な教えは何でしょうか。」イエス様はその人に「聖書には何と書いてありますか」とおっしゃいました。するとその人は答えました。「『あなたの隣人を自分を愛するように愛しなさい』と書いてあります。」イエス様は、「そのとおりです。だからあなたもそのようにしなさい」。とおっしゃいました。しかしその人は続けて質問しました。『自分を愛するように隣人を愛する』とはどういう意味ですか?」イエス様は、その人の質問に答えるために、あるたとえ話をお話しになりました。

 

【ストーリ-】

1、強盗に襲われる

あるユダヤ人の旅人が、エルサレムからエリコという町に向かって旅をしていました。エルサレムからエリコまで約30キロメートル、標高差1000メートル以上ある険しい道のりでした。この道は危険なことで知られていました。

しばらく歩いていると、突然、「おい!金を出せ」と強盗が飛び出してきたのです。旅人はどんなに驚いたでしょう。慌てて逃げようとしましたが、強盗たちに囲まれてしまいました。強盗たちは、あっという間に旅人の持っているものを全部取り上げ、洋服まではぎ取って、ボコボコに殴りつけ逃げていきました。旅人はその場に倒れて、もう起き上がることもできませんでした。

 

2、祭司・レビ人の登場

しばらくすると、そこを一人の祭司が通りかかりました。祭司は、神殿で神様のために働いている人です。「おや。あそこにだれか倒れているぞ」と気がつきましたが、「あの人は死にかかっている。助けても何もならないだろう」「面倒なことに巻き込まれないようにしよう」と考え、助けようともしないで、道の反対側をさっさと行ってしまいました。

 

次にレビ人がやってきました。レビ人も神様のことをよく知っている人です。倒れている旅人を見つけると、「ああ、強盗にやられたのか。大変だな」と思いましたが、「急かないと私まで強盗に襲われるかも知れない」。と考え、声もかけずに道の反対側を通って行ってしまいました。

 

 祭司とレビ人は神様と人々に仕える人たちで、困っていた人がいたら当然助けてあげるだろうと思われる人たちでした。けれども同じユダヤ人が道端に倒れている姿を見ても、なんと反対側を彼らは通り過ぎて行ったのでした。祭司もレビ人もこの可愛そうな旅人を助けませんでした。

 

3、サマリヤ人の登場

 しばらくすると、ロバに乗って三人目の人がやって来ました。その人はサマリヤ人でした。

その人は道ばたに倒れている人を見つけると、「あっ、大変だ。人が倒れている!」と駆け寄って行きました。そしてその人に「大丈夫ですか。しっかりしてください。」と声をかけました。よく見てあることに気づきました。この人はユダヤ人だったのです。当時ユダヤ人とサマリヤ人は敵対関係にありました。ユダヤ人は、サマリヤ人をとても嫌っていました。もちろん、サマリヤ人もそのようなユダヤ人を深く憎んでいました。しかしこのサマリヤ人は、そんなことを気にしませんでした。目の前にいる傷だらけで倒れている人を、かわいそうに思ったので助けることにしたのです。

 

 まずこの旅人の傷にぶどう酒をかけて消毒しました。そしてオリーブ油を塗って傷の手当をし、包帯をしました。それから自分のロバにその人を乗せて、近くの宿屋に連れて行きその人を看病しました。そして「心配しなくてもいいですよ。すぐ良くなるから」と親切なやさしい言葉をかけてあげました。

 

 朝になると、サマリヤ人は宿屋の主人の所に行って言いました。「あのユダヤ人は、今朝はとても良いようです。けれどもまだ弱っています。もうしばらくの間ゆっくり休んで、食べ物も十分食べなければなりません」。そしてサマリヤ人は宿屋の主人にお金を渡して、「私はもう行かなければなりません。この人の面倒を見てあげて下さい。もっとお金がかかったら、帰りに私が払います」と言ってお願いしました。

 

4、イエスの質問

 それからイエス様は、さっき質問した人に言われました。「さあこの三人のうち、どの人が旅人の隣人になったと思いますか。」その人は「その旅人を親切に助けてあげた人です」と答えました。イエス様は「あなたも行って同じようにしなさい」。「困っている人を助けてあげなさい。そしてよい隣人になりなさい」と言われました。

 

【まとめ】

 

1、私たちの力では、永遠のいのちを得ることはできない。

 

 敵を愛することは、普段から律法を説いていた宗教家たちにもできなかった。神が救いのために要求する愛の高さを私たち人間は達することができない。

 

このたとえ話は、もともと宗教家の「何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受け取ることがでいるでしょうか」という質問の答えとして語られた。ルカ10:25、28

 

宗教家に象徴される行いによって「永遠のいのち」を得ようする求め方は、神から離れた人間が、自分の力によって救いを得ようとする罪の性質である。

 

私たちも、自分の力によっては"神の律法"を全うすることができない。

この例え話の最後に、イエスは「あなたも行って同じようにしなさい」と語ったが、だれがそれを行うことができたであろうか。できなかったに違いない。

 

2、イエスが良きサマリヤ人になって下さった。

 

神の御子だけが、敵をも愛することをしてくださったお方である。

私たちは、御子により、イエスを神の子として告白するだけで救われる。

 

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちが愛し、私たちの罪の為に、なだめの備えものとしての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」Ⅰヨハネ4:10

 

「だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにおられます。」Ⅰヨハネ4:15

 

3、自分の救いの為にするのではなく、神を愛するゆえにする。

 

神との愛の関係の中で、私たちは隣人、敵をも愛することができるのです。

 

「私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子供たちを愛していることがわかります。神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」Ⅰヨハネ5:2‐3

 

神は、私たちが神の命令を守ることを願っておられます。しかし、それは、神がまず私たちを愛してくださったからです。私たちが神を愛したのではありません。

 

"愛さないと怒られる"から、"地獄に行く"から愛するのはありません。それは本当の愛ではないからです。

「愛には、恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないからです。

私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」Ⅰヨハネ4:18

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