CSテキスト2年目9月第4週目

聖書知識シリーズ「教理」


「あがない」



【目的】 

聖書のテーマである、「あがない」について。

聖書には「あがない」という言葉がでてきます。今日は、この「あがない」について学んでいきます。


「あがない」は、もともと土地、奴隷、捕虜を代価を払って買い戻すことを意味しますが、旧約聖書時代では、神に対して犯した罪を帳消しにしてもらうために、牛や羊などの家畜を殺して祭壇に供えることを意味しました。

最終的に、イエス・キリストが十字架の死をとげることによって私たちの罪の「あがない」を通して救いのわざをなしとげたてくださいました。


1、 すべての人は罪人です。


ローマ

3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない。


アダムは神様の命令に背いて罪を犯しました。

アダムは、神様のことばを破って、善悪を知る木の実を食べました。そのことで人類に罪が入り、それ以来

全ての人は罪人となったのです。


2、罪の許しのためには、犠牲が必要でした。


聖書を読むと、罪がゆるされるためには、必ず犠牲が必要です。

神様はそれをわたしたちに教えてくださっています。


ローマ

3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。



1)アダムが罪を犯した時には、神様は動物を殺し、毛皮の衣を作ってアダムを守りました。

  アダムが罪を犯した後、自分が弱い存在であることに気付いたアダム(人間)に対して、神はすぐにそれを覆って守るものを与えてくださったのです。罪の結果、はだか(守られない)状態になった人間に対して神様は、愛し続けられました。しかし、毛皮を作るためには、動物の命が奪われ、血が流されるという痛々しい犠牲が行われなければなりませんでした。


2)イスラエル人がエジプトから脱出して、約束のカナンに向かう時には、神様のさばきから救われる方法を与えてくださいました。それは、まったく傷のないこひつじを殺すことで罪の身代わりとさせられたのです。その証拠を示すために家の門にその血を塗った家は神様からの裁きから救われました。そうでない家は、神の裁きとしてういご(はじめに生まれたこども)の命が取られました。(出エジプト 12:21-28)


3)モーセの時代、イスラエルの国全体のために、年に一度大祭司が動物を殺してその血を神様の前に捧げなければなりませんでした。そうすることで、イスラエルの罪が許されたのです。(レビ記16章)


3、罪にはかならず神様の裁きがあります。


義なる神

神様は、100パーセント義なるお方です。それは、どんな小さな罪も見逃すことをされない、できないということです。


裁判官が、罪に対してはかならず刑罰を命じなければならないのと同じことで、神様は、罪に対してはかならず裁きを与えなければならないのです。


愛なる神

しかし、同時に神様は大きな完全な愛で私たちを愛してくださっているのです。罪は必ず裁く神が、罪人の私たちを愛さずにはおられない。これはどんなに辛いことでしょうか。


ヨハネ   3: 16  神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。


ローマ   5:  8  しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。



それは、裁判官が自分の愛するこどもが、過ちを犯してしまい、それを裁いて死刑を言わなければならないような状況です。そのような状況に置かれた裁判官はどのような思いをもつでしょうか。


わたしたちが罪人であるために裁かなければならない一方で同時に愛のゆえにどうしても救いを与えたいと思われたのです。


4、神様は罪の裁きから逃れる道をあたえてくださいました。


アダムに対しての毛皮、ノアの箱舟、出エジプトの過ぎ越し、年に一度、すべてのイスラエルの罪のため大祭司がおこなった犠牲(動物を殺して捧げる罪祭)。これらのことを通して神様は人間に一つのことを教えました。


罪の許しには犠牲(血)が必要です。

犠牲とは血で、血とは、だれかの命です。


アダムに与えた毛皮がいつかはボロボロになったように、イスラエルの大祭司が毎年行った罪の許しのための犠牲には限界がありました。なぜなら、私たち人間は罪を犯して犠牲をはらっても、また罪を犯してしまうからです。


へブル

10:11 こうして、すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じようないけにえをささげるが、それらは決して罪を除き去ることはできない。


ローマ

3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。

3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。

3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」


4、完全なあがない。イエスキリストの十字架


ローマ

3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。


神様は、最後に、一度だけ、完全な罪からの救いの方法をあたえてくださいました。

それが、イエスキリストの十字架の死、そこで流された血です。


へブル

10:10 この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。



まったく罪のないお方イエスキリストを、私たちの罪のかわりに十字架につけることによって、私たちの罪が完全に許されるようにしてくださったのです。

それは、一方的な犠牲です。本来受けるべき裁きを代りに受けてくださったのです。


ある少年には、とても大事にしていた船の模型がありました。あるとき川で、その船で遊んでいたときに、流れにのまれて下流に流されてしまったのです。川の流れが速く、追いかけたのですが見失ってしまい見つけることができませんでした。とても大事にしていたお気に入りの船だったので、少年はとても悲しみました。


ところが、数か月後、町のある店のショーウィンドウにその少年の船が飾っていました。少年は大喜びして店の主人に自分の船であることを説明し返してほしいと言いました。しかし、店の主人は、これはある人から買ったものなのでタダでは返せないと言いました。それは少年にとっては大金でした。


少年は、大好きな船の模型を買い戻すために一生懸命アルバイトを始めました。朝は早く起きて新聞配達をしたり、近所のお店の雑用をしたり・・・。そして数か月後、ようやくお金ができました。少年はそれを持ってお店に行き、

そのお金を支払ってもう一度船の模型を自分のものにしたのです。かつて自分のものであったものを、犠牲を払って買い戻したのです。



神様にとって、とても大事な私たち一人一人は、罪を犯したために神様の手から離れてしまったのです。

神様はもともとご自分のものであった私たちを罪の裁きから救って、罪許されるためには犠牲を払わなくてはなりませんでした。それは、大きな高価な犠牲でした。それがイエスキリストの十字架です。十字架は、神様が神のひとりごイエスを、私たちの罪の身代わりに十字架で処罰してくださったことです。イエスキリストを私たちの代りに処刑するかわりに、私たちの罪を許してくださったのです。その犠牲と引き換えに私たちの罪は許され、神様のものとされるのです。


Ⅰコリント

6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。


このあがないを受け取る方法はなんでしょうか。

イエス・キリストが私の罪の身代わりに死んでくださったことを信じることです。



ローマ

3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。


ローマ  10: 10  人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。





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