CSテキスト2年目10

第 4週目

聖書知識シリーズ「教理」

 

「“しもべ”となられた、イエス・キリスト」

 

【暗唱聖句】

マルコ10:45

人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

 

【ポイント】

わたしたちにとって、イエスキリストの姿の中でもっとも驚くのは、神の御子でありながら、神のしもべとして地上での生涯を全うされたことです。その生き方がわたしたちの目指す生き方です。

 

【テキスト】

10:35 さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」10:36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」10:37 彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」10:38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」10:39 彼らは「できます。」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。10:40 しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」10:41 十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。10:42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。10:43 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。10:44 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

 

ピリピ23節―9

2:3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。2:9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

 

 

1、      えらくなりたい人は、つかえる人(しもべ)になりなさい。

 

あるとき弟子たちは、イエス様のところに来て、自分を一番えらい立場にしてほしいと頼みました。

弟子たちは、度々誰か自分たちの中でえらいのかで争いました。

皆さんはどうですか? クラスの中で、学校の中で、自分が一番えらくいたいと思ったことはないでしょうか。また人と比べて自分のほうが立派だ、正しい、よく出来ている、などと思ったことはないでしょうか。

 

もし、みんなが他の人よりもえらくなりたいと思ったらイエス様が何とおっしゃっているかよく学ぶ必要があります。

 

イエス様はその答えをこのようにおっしゃっています。

「しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。10:44 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」

 

イエス様は、私たちの罪の赦しと救いのために、この地上に来られました。神の御子にも関わらず人間と同じ歩みをされました。今の時代に世界の中でもっとも知られ、あがめられ、もっとも影響をあたえつづけているイエスキリストは、地上では“仕える人”“しもべ”でした。

 

 

アメリカにある小さな大学でこんな話があります。

この大学は経営難に陥り、資金が必要でした。建物は古くなり、先生たちの給料も払えなくなってしまいました。ある日、見知らぬ人がこの大学にやってきました。たまたま作業服を着て、壁を洗っている人を見かけたので、その人に訪ねました。「学長にお目にかかりたいのですが。」すると、作業服を着た人は「12時に学長室にいらしたら、お会いになれると思います」と答えました。訪問客が言われたとおりの時間に学長室に行きました。すると、なんと先ほど出会った人がきちんとした洋服に着替えて、学長室にいるではありませんか。作業服の人が実は学長だったのです。

数日後、一通の手紙が学長宛に届きました。その中に5万ドル(今では約400万円)の小切手が寄付金としてささげられていました。学長の謙遜な心がこの見知らぬ人の心を打ったからでした

 

謙遜になることがとても大切と思える話です。

しかし、イエス様の言われた“謙遜”とは、このような意味を超えてお話になられました。

 

イエス様は、神の御子であられるにも関わらず、私たち人間の前でへりくだりしもべとして仕えられました。でも、それは人の前に自分を低くされたのではありません。神の前に、しもべとなられた結果なのです。

 

2、神のしもべ「イエスキリスト」

 

人よりも自分を低くする“謙遜”はとても大事なことです。しかし、イエスがしもべとして歩まれたのは、神の御心に従う者としてのしもべでした。

神様のしもべ(奴隷)として、神の御心に従われたのです。

 

ピリピ2:8

 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

 

 

奴隷(しもべ)の意味・・・

今は、奴隷制度というものはありませんが、歴史の中では奴隷たちが社会を支えていた時代があります。戦争に破れた人々はみな奴隷とされ、勝利国の社会と経済を支えていく基盤となるべく当然の財産であり動力だったのです。聖書が書かれた時代であるローマ帝国も奴隷制度がその社会を支えていたのです。

「奴隷」は、第一、自分の意志で主人や働き場を選んだり変えたりできません。また、どんなに能力があっても、主人の「財産である」という点で家畜と家財道具と同列でした。

 

 

イエス様を聖霊によって授かった重要な役目をしたマリヤは、たいへんな恐れや困難が予想される中でこう言いました。

「ほんとうに、私は主のはしためー女奴隷―です。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と言いましたが、これが「奴隷」(しもべ)の真の姿なのです。

 

イエス様は、その地上の人生において完全に神様のおことば(思い)に従われました。

イエス様が神様のおこころに従ってくださったので、私たちは今、イエス様の十字架により罪赦されて救われることができるのです。

                          

イエス様が、自分の思いではなく、神様の思いに自分を従わされた出来事は、十字架にかかる前の祈りのなかで出てきます。

 

マルコ

14:32 ゲツセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」14:33 そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。14:34 そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」14:35 それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、14:36 またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」

 

イエス様は、自分の思いではなく、神様の思いに従うことをなされました。

 

3、私たちは神様によって買い戻された存在

 

13:44 天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。

13:45 また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。

13:46 すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。

 

畑の中に隠された宝、真珠を買った人のたとえ話」を知っていますか。それを買った人は自分の全財産を売り払ってそれを買ったという話です。どんな宝なのか分かりません、どんな真珠なのかよく分かりませんが、それに見合う代価として自分の全財産を払って買ったのです。

 

そのたとえの意味するところは、買った人物は御父であり、払われた代価は御父の全財産である御子ご自身です。そして買われた宝なり真珠は「私(たち)」です。

 

そんな「私」は、神の全財産を売り払っても惜しくないほどの価値ある存在なのです。買われた「私、あなた」は、買ってくれた主人のものです。そしてその主人は私を買ってくれたのですが、奴隷というよりも、神の養子として自由に生きることを許しておられます。

 

主に召された者はすべてキリストに属する奴隷です。なぜなら、代価を払って買い取られたからです。「キリストのしもべ」です。使徒パウロはしばしば自分のことを「キリストのしもべ」と自己紹介しています。自分のことを忘れて、キリストに専心して、一生を捧げて仕える者のことです。

 

立場としては、私を買い取ってくれた主人の所有のものであるということを決って忘れないようにしましょう。

 

 

 

 

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