CSテキスト3年目1週目

教理シリーズ「教会3

 

 

「教会3-キリストの体」

 

 

タイトル     キリストのからだなる教会

 

〔聖書箇所〕12223

1:22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

 

教会って何ですか? それは「キリストをかしらとしたキリストのからだです。

 

(1) 215節~16

「このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。」

(2) 36

「その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。」

(3) 44

「からだは一つ、・・・です。」

(4) 41112

「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、」

(5) 416

「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」

(6) 425

「あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。」

 

 

復習.

「教会」のもともとの言葉 ―「エクレシア」の意味と使命―

聖書で「教会」と訳されていることばの元々の単語はギリシア語で「エクレシア」でしたね。エクレシアとは、「(ある目的を持って)召し出された者たち」という意味でした。

つまり、神によってこの世からある使命をもって召し出された者たちの集合体を意味します。ですから教会とはいわゆる教会堂などの建物などではありません。それは教会堂であって、教会そのものではありません。

 

「キリストのからだなる教会を建て上げること」は、私たちが、神によって召し出された者たちの使命です。そしてキリストのからだなる教会「エクレシア」は、からだが一つであるように、本来「一つ」なのです。ユダヤ人も異邦人もともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるとなったように、教会は一つしか存在しないのです。

 

私たちが神によって呼び集めたられたのは「キリストのからだを建て上げるためである」ということです。

 

 

1.     人間のからだについて考えてみましょう

 

(1) 骨と筋肉の話

 

骨と筋肉、骨は硬くて曲げたり伸ばしたりはできません。逆に、筋肉は柔らかく、伸びたり縮んだり融通がききます。全く相異なる性質をもった骨と筋肉がひとつになって働くことによって、私たちは体を動かしたり、運動したり、自由に歩いて移動したりすることができるのです。また、ピアノを弾いたりドラムを叩いたりすることができるのも骨と筋肉が一つとなって働いてくれているからですね。

 

(2) 体を支える骨

 

人間の体は骨によって支えられていますが、その骨の数はどのくらいあると思いますか。その数206本だと言われています。新生児は350本あるのでそうですが、成長するしたがって、骨同士がつながり、成人で206本になるのだそうです。

 

骨は体を支えている大切なものですが、支えるだけでなく、守るという働きもあります。

たとえば、頭蓋骨は人間の大切な脳を守っていますし、肋骨などは内臓を守っています。

さらに骨の内部、つまり骨の中心部では、血液の細胞を作っている骨髄があります。

また、骨はカルシウムの貯蔵庫にもなっています。カルシウムが少なくなるとどういうことになるか、骨粗鬆症になって骨が折れやすくなるのですよ。

 

(3) どうして体を動かすことができるか知っていますか?

 

それは、大脳が指令を出して筋肉を収縮させて、関節が曲がり、それによって手や足が動きます。つまり、筋肉が骨を動かしているのです。骨と骨をまたぐように筋肉がついていて、それが伸びたり縮んだりして骨を動かす。その骨と筋肉をつないでいるのが腱(けん)と言いますが、骨と骨のつなぎ目には関節があります。この関節の働きも重要です。教会にも骨と骨をつなぐ間接をするような働き人が必要です。

 

(4) 筋肉の種類

 

筋肉には大きく分けて二種類あります。ひとつは自分の意思で動かす事のできる筋肉で、手や足の筋肉がそうです。

強い力を出すことができますが、疲れやすいという特徴があります。

もうひとつは、自分の意思とは関係なく動く筋肉です。内臓の筋肉はみなそうです。強い力を出すことはできませんが、持久力があり疲れません。

 

ここで質問です。心臓の筋肉はどちらの筋肉でしょうか?

答えは、どちらの筋肉も必要ということです。 どんな運動にも応じる強い力を出さなければならいのと同時に、自分の意思で動かしたり止めたりできないな筋肉も必要なのです。

 

(5) 筋肉の他の働き

 

その筋肉の働きですが、骨と連動して手や足を動かすだけでなく、その働きは他にもあります。そのひとつは体温の調節(体温を上げる働き)です。

筋肉を動かすことによって体内の脂肪を燃焼させてエネルギーを引き出します。

 

また、筋肉を動かすことによって、実は骨も刺激を受けて強くなるのです。ですから、長くベッドなどに臥していると筋肉が使わなくなるために、骨が弱ってしまうのです。

筋肉を鍛えることで強くなると言われます。そして骨もそれにつられて強くなるというわけです。

 

相反する性質をもった骨と筋肉、それは実に、お互いに助けあって支えあっているわけです。

 

(6) ホルモンの働き

 

骨とか肉とのように目に見えないけれど重要な働きをしているものもあります。そのひとつにホルモンがあります。

 

ひとりの人間の体はおよそ60兆の細胞からなると言われます。これらの細胞がバラバラに機能していては、生命が維持できないため、体のそれぞれの細胞に何らかの情報を送って、その機能を発揮するように指示し、環境の変化に対応しています。そのような生体の調節機構を担っているものの1つがホルモンです。

 

ホルモンの存在は一定の状態が保たれているときにはその存在とその働きは注目されることはありませんが、からだのバランスを崩したときにはじめて、ホルモンの働きの重要性がわかるのです。ホルモンは体全体を健康にしていくとても大切な存在なのです。

 

 

 

2 キリストの体である私たち

 

私たち一人一人はキリストのからだを建て上げるために、キリストによって呼び出され者たちです。

 

キリストのからだを建て上げるために必要な力はすでに(気づいても気づかなくても)ひとりひとりに与えられているのです。

 

からだですから、自分だけでは何もできません。骨だけあってもなにもできないのと同じです。他のお友達と協力することによって、自分も生かされていく世界なのです。

 

それぞれの有機的なかかわりが必要なからだ、それが教会のたとえなのです。

教会、それはキリストの体です。私たちひとりひとりが全体をつくり、ひとりひとりがしっかりと助けあって互いを支えている姿です。

 

 

※有機的:多くの部分が集まって一つの全体を構成し、その各部分が密接に結びついて互いに影響を及ぼし合っていること。

 

 

3. 体として神様の働きをする

 

聖書の中のひとつの話をしたいと思います。マルコの福音書2章に出てくる話です。この出来事は私たちがそれぞれの与えられたものをひとつにして、神様の働きをすることの見本です。

 

それは、中風となった男がイエスによって癒された奇跡の出来事です。

この出来事は、キリストのからだが一致して働かなければならないこと、そしてそのときに現わされる神の栄光のすばらしさを私たちに教えてくれます。

 

マルコの福音書2章1~5節、さらに、1112節。

 

2:1 数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。2 それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。3 そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。4 群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。

―さらに、中風の人に、

 

2:11 「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。12 すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない。」と言って神をあがめた。

ここでおもしろいと思うことは、中風の者をイエスのもとに連れて来た4人の者たちに対するイエスの反応です。5節「イエスは彼らの信仰を見て」とあります。中風の者は自分をイエスのもとに連れて行ったその信仰によって彼は罪を赦されて神とのかかわりに招かれ、いやしを受けることができたのです。彼をイエスのもとに連れて行った4人の者たちの存在は、教会のからだを担う人々といっても良いと思います。

 

 

中風の者が癒されるためには、少なくとも五つの賜物が用いられました。

 

 

(1) 最初の賜物は、「憐みの賜物」です。

 

中風になった者にどうじょうしてイエスさまの所に連れて行こうと言いだした発起的存在がいたはずですね。人をかわそうに思う心をもった存在です。人の苦しみや不幸をただ黙って見てはいられない、なんとかしてあげたいという心を人一倍多く与えられている人の存在がいたということです。

 

(2) 次の賜物は、「奉仕の賜物」です。

最初の憐みの心をもった人の言葉に心動かされて実際にこの中風の者をイエスさまの所に連れて行こうと自発的に申し出た者がいたのです。

憐みの心をもった人ひとりでは連れて行くことはできません。実際にその人を担架に乗せていく人が少なくとも他に3名必要でした。その必要に答えた者たちがいたのです。なんとすばらしいことではないでしょうか。憐みの心を実際の行動に移すことができる奉仕の賜物をもった人が必要でしたが、その人たちが与えられたことで、中風の者はイエスの所に連れて行くことができました。

 

(3) ところが、彼らは思わぬ事態に直面しました。それは群衆のためにイエスに近づくことができなかったのです。

「これではどうしようもない。諦めるしかない。」と、そこでさじを投げてしまってもおかしくありません。

 

でも、病人を担いで来た者の中にとても大胆な発言をする者がおりました。大胆で積極的な「信仰の賜物」をもった人の存在です。その賜物を与えられた人はこう言いました。「屋根に上ろう。そして屋根をはがして、穴をあけて寝かせたままつりおろそうじゃないか。」まさに大胆な発想です。このような発想する信仰の賜物を与えられている者が教会の中にはいるものなのです。このような発想の転換をする人の発言を私たちは無視してはいけないと思います。ある意味ではこの賜物はリーダーシップの賜物とも言えます。この賜物がなければ、この中風の人はイエスに出会うことも、またいやされることもなかったからです。

 

(4) この出来事にはもうひとつの賜物が働いています。それはなんだか分かりますか。屋根をはがすということは、屋根を壊すことです。「リーダーシップの賜物」をもった者が大胆にも「屋根をはがして」と言ったとき、「大胆な発想はいいが、その弁償はいったいだれが支払うんだ」と思うことがあってもおかしくありません。

 

(5) しかしそのとき、暗黙のうちに、「私が弁償するためのお金を出しましょう」という人がいてはじめて屋根をはがすことができたと思います。

そうした後ろ盾がないところに、いくら信仰の賜物をもった大胆な人がそうしようと言ってみたところでできるはずがありません。一人の中風が救われるために喜んで犠牲を払います。その壊した屋根を弁償する心をもった者の存在が必要です。「ささげる賜物」と言っても良いでしょう。人のため、神のために喜んでささげる賜物をもった人が必要なのです。

 

このように、ひとりの人が救われるためには五つの賜物が組み合わさることで実現したのですね。

 

「イエスが彼らを見て」という表現は、ひとりの人のために五つの賜物(能力)が互いに結び合わされた姿を見て言ったことばです。イエス様はだれかひとりを見たのではなく、ひとつとなったチームを見てお褒めになりました。

 

この様子を一部始終見ていた群衆は、「みなの者がすっかり驚いて、『こういうことは、かつて見たことがない。』と言って神をあがめた。」とあります。

もちろん、一人でも神のみわざを経験することができます。しかし、神のさらに勝ったみこころは、キリストのからだなる教会において、みなが一致して、助け合って働くことによってすばらしい力を表していくのですね。

 

みなさん一人ひとりは、キリストのからだを建て上げるために、特別に呼ばれた者であることを信じてください。

からだの一部分を担う大切な存在であり、他の部分と組み合わされることで自分の存在が輝くように神によって呼ばれた存在です。


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