CSテキスト2年目10

第1週目

聖書知識シリーズ「教理」

 

「人として歩まれたキリスト」

 

 

目的】

イエス・キリストは、神でありながら人の姿をもって、私たちと同じ肉体をもち、この地上を歩まれました。ゆえに私たちの弱さも理解してくださるお方であり、私たちに同情してくださるお方です。

神でありながら、同時に完全な人としての歩みを全うされたキリストについて学びます。

 

ピリピ人への手紙

2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、

2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

 

1、イエスは人としてこの地上に来られました。

 

イエスは、聖霊によって身ごもったマリヤより生まれてこられました。そして、私たちと同じように、赤子の状態から育てられ、少年時代を過ごし、学び、両親につかえ、兄弟を持ち、父の仕事を受け継ぎながら、ごく普通の家庭の子供として、家族の一員として生活をされました。

 

イエスは、他の宗教に出てくるような何か特別な生まれ方をしてきたわけでもなく、超人的な能力を持っていたわけでもありませんでした。

 

2、イエス様は私たちの生活をよくわかってくださいます。

 

ですから、私たちが学校で経験するようなことをよく知っているお方です。友達と遊ぶこともされましたし、いじめられることもありました。こどもにとってはつらいような経験もあったでしょう。

 

またイエスが育った家庭は、王子のような家来に囲まれた生活でもありませんでした。大金持ちの子供で召使がおおぜいいるような生活でもありませんでした。

イエスの育った家はごく普通のサラリーマンのような、または職人の家のようにみんなで家計を支えるような家でした。むしろ貧しい家庭で、イエスは父の手伝いをしながら育ったのです。

 

またイエスが育ったのは大都会で宗教的な中心地のエルサレムではなく、そこから遠く離れたナザレという小さな村でした。歴史に記録もないような村です。のちに宣教活動をされるようになったイエスに対してある人は「あんな村から偉大な人が出てくるわけがない」と言ったほどでした。

 

ヨハネによる福音書 1:46 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」

 

イエスはそんな村では、目立った少年、また青年だったでしょうか。どうもそうではないようだったのです。

その証拠に、ナザレの人からも救い主としては認められませんでした。イエス様が故郷に帰った時、すでに他の地方では大活躍をしていたのに、故郷では評価されませんでした。村の人たちは以前のイエス様を知っていたわけですが、そんなに目立った人物でもなかったので、つまり普通の人だったので、まさか奇跡を起こしたり、神様の業をしたりするとは信じられなかったのです。

 

マタイによる福音書

13:54 それから、ご自分の郷里に行って、会堂で人々を教え始められた。すると、彼らは驚いて言った。「この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう。

13:55 この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。

13:56 妹たちもみな私たちといっしょにいるではありませんか。とすると、いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。」

13:57 こうして、彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」

 

 

私たちは、普段の生活の中で自分をどう思っているでしょうか。

何か特別な才能や、目立った人になる必要があると思っているでしょうか。才能があることは良いことですし、それは神様から与えられたものなので感謝して大きくするべきですし、仲間のリーダーになっておおきなことをすることも悪いことではありません。でも、そうでなくてもいいのです。イエス様は、ごくごく普通の子供で、普通の家庭で、普通の人生を歩まれたのです。

それは、普通と思える生活の中に生きている私たち、普通の存在と思える私たちの一日一日に起こる出来事を知ってくださるためでした。

ですから、イエス様は私たちのことをとてもよく理解してくださるのです。

私たちの喜びも楽しみも、ときに悲しみやくやしさ、落ち込みも同じようにわかってくださるお方なのです。

 

イエスは肉体の弱さを知っておられました。

私たちの日常を知っておられ、普通の人の人生を知っておられたイエス様は、当然人間として体の肉体の弱さも経験されました。つまり、私たちと同じように疲れるときもあったのです。

 

 

3、イエスは祈りが必要でした。

 

マルコ   1: 35  さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。

 

イエス様が最も必要とされたのは、父なる神様との交わりでした。

私たちは、ごはんを食べて寝るだけで生きていくことができるでしょうか。

体は生きていくことはできますが、心はどうですか?

 

「今日は楽しかったな」という気持ちがあると、夜もぐっすりと眠れますよね。

友達と喧嘩をしたら心が痛みますよね。いやなことがあると学校に行きたくなくなったりもします。

家族の中に病気の人がいると、なんとなく自分の気持ちも沈んだりします。

宿題ができていないと学校が面白くなかったり、いじめられてこころが暗くなったりもします。

 

イエス様も、私たちと同じようにいろいろな経験をしました。自分の大事な人が死んだり、一番身近な人に自分のことがわかってもらえなかったり、一生懸命にお世話をしてあげたのに最後に裏切られたり、自分の親から理解されなかったり・・・。

そんな時に、イエス様はよくひとりっきりになってある時間を持ちました。

それは父なる神様とお話しをしたのです。それはお祈りでした。

 

イエス様も、父なる神様とお祈りの中で、心の中の必要を満たしておられました。それはイエス様にとってなくてはならない時間だったのです。

 

私たちも祈りが必要です。イエス様はそのことを教えてくださっているのです。

私たちには、神様とお話をして、神様の声を聞き、また私たちの心を神様に知ってもらう時間がとても大事なのです。

私たちにも一日の中でいろんなことが起こります。楽しいこと、かなしいこと、つらいこと、・・・。

心がそれらのことで、時々疲れるとこきもあります。

誰かに対して怒ったり、よくない思いをもって心が暗くなる時もあります。

 

そんな時は、イエス様がしたように、神様とふたりきりでお話しをしましょう。

イエス様が父なる神様との時間で心を強くされたように、私たちの心もいつも安心と喜びで満たされることができるのです。

 

 

【関連する御言葉】

 

へブル人への手紙

4:14 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。

4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

 

5:7 キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。

5:8 キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、

5:9 完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となりました。

 

マタイによる福音書

21:18 翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。

 

ヨハネによる福音書

4:  6  そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は六時ごろであった。

 

マタイによる福音書

26:37 それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。

26:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」

 

 

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