CSテキスト2年目10月
第 3週目
聖書知識シリーズ「教理」
「神であるイエス・キリスト2」
【暗唱聖句】
Ⅰヨハネ5:5
世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。
【ポイント】
前回は、イエスキリストが、神(神の子)であることを学びました。
今回は、福音書の中で、それを具体的に現している出来事を取り上げて、イエス様が神であられることを学びたいと思います。「中風の男の癒し」から学びます。
【テキスト】
ルカ伝5章17-26節 (同記事 マルコ2:1-12)
5:17 ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人と律法の教師たちも、そこにすわっていた。彼らは、ガリラヤとユダヤとのすべての村々や、エルサレムから来ていた。イエスは、主の御力をもって、病気を直しておられた。
5:18 するとそこに、男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来た。そして、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた。
5:19 しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので、屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真中のイエスの前に、つり降ろした。
5:20 彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。
5:21 ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めた。「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」
5:22 その理屈を見抜いておられたイエスは、彼らに言われた。「なぜ、心の中でそんな理屈を言っているのか。
5:23 『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。
5:24 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために。」と言って、中風の人に、「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。
5:25 すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。
神様とはどんなお方でしょうか。(前回の復習)
神様とはこのようなお方でした。
・ 完全な聖さを持ったお方
・ 永遠のお方(創造以前より存在し、永遠に生きておられる)
・ 全能なお方(どんなことでもすることができる)
・ 全知 (すべてを知っておられる)
・ 不変 (いつまでも変わらない)
・ 偏在 (どこにでも居られる。空間に制限されない)
・ 創造主(天と地、私たち・地球・宇宙を造られた方)
・ 罪を赦すことができる(権威を持っておられ)
1、 イエス様は多くの人の病を癒されていました。
「イエスは、主の御力をもって、病気を直しておられた。(5:17)」
イエス様は、神としての力を持っておられたので、病気も支配されていました。イエス様によって多くの奇跡が起こり、病が癒されていたのです。
2 中風の男が運ばれてきた。
中風の(パラリュオー)とは、「ぐらぐらにゆるめる」という元来の意味から、「麻痺がある」ことを示す当時の医学用語でした。医者でもあったルカらしい表現ですが、脳卒中のように身体の麻痺を伴う病気を指していました。
カペナウムという町には、イエスが宿泊される家があったようです。この家が借家なのか持ち家なのかは、はっきりしません。マルコ2:2では、この家に多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになったと書かれています。(マルコ2:2)
このような混雑の中に、中風をわずらっている人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られたのです。彼らは、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていたのですが、大変な混雑のために、それは困難を極めました。それで、彼らはどうしたでしょうか?
彼らが患者をイエスの目前にまで運んだ方法は、大変に独創的でした。水平移動が不可能なら、垂直移動を考え出したのです。すなわち、イエスの家の屋根の瓦を剥がして、床を屋上から吊り降ろしたのです。おそらく、ロープか何かで床を結びつけて降ろしたのでしょう。当時のパレスチナでは、庶民の家屋の屋上は、梁の上に粗末な木材を格子状に敷き詰めて、その上にわらを敷き、その上に粘土を敷いて固めたものでした。かわら屋根は、立派な家にしか使われなかったのです。ですから、この家は、それなりに立派なものであったと思われます。その立派な家の屋根を壊してまで友人を運んだ人たちは、独創的であると同時に、勇気があった人たちでした。
自分の家の屋根を壊されたら、人はどのような反応を起こすでしょうか?短気な人でなくとも、怒り出すに違いありません。しかも、瓦に葺いた立派な家でしたから、なおさらのことであったことでしょう。しかし、イエスは何の咎めだてもせずに、彼らの行為を評価されたのです。
3 「あなたの罪はゆるされた」
イエスは、彼らの破天荒な行為に、信仰をご覧になったのです。そして、その中風の人に、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われました。
新改訳では、「友よ」という呼び掛けになっていますが、原語では、「人よ」なのです。
これは、罪深くて、しかも弱い存在としての人、そして、ただ神のあわれみにすがるしか、救われる道がない人に向けられた、キリストの心からのよびかけでした。
ここで語られた「あなたの罪は赦された」とは、中風の男の具体的な罪を指しています。それらは、彼の人生に固有な罪の数々のことなのです。
しかし、彼の罪は、イエス様が罪の赦しを宣言された時点で、彼の罪がことごとく赦されてしまったという意味なのです。
信仰を持ってイエスに近づいた彼に、このような「罪の赦し」が宣言されたのです。
注意:【罪と病の関係】
病がいつも罪から来るとは限りません。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」ヨハネ9:3 にあるように、またヨブの人生にあるように、病の原因は様々でまた、私たちの理解を超えています。
しかし、ここでは、彼の病が罪の結果であると推測できます。
(3 パリサイ人・律法学者の反応) ※カットしてもOKです。
「神のほかにだれが罪を赦すことができよう」(5:12)
彼らは神様を大事にしているように見えますが、実はそうではなく、自分たちの良い行い(宗教的な行為)によって罪が赦される(義とされる)と考えていたのです。彼らはイエスが罪を赦すことができると考えず、また彼ら自身は、罪の本当の重さ・深さにも気づいていなかったのです。
4 罪の赦しを証明するために、癒しを行われた
「『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。
人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために。」と言われた。(5:24)
イエス様にとっては、実は病気を癒すことはとても簡単です。
しかし、罪を赦すことはとても大変なことなのです。そこには完全な犠牲・身代わりが必要だからです。
イエス様はここで、ご自身が罪の赦しを持っていることを理解させるため、示すために「癒し」を行われました。
神様の前で、罪のない人はいません。また罪はわたしたち人類にとって最大の問題です。
ここに水の入ったグラスがあるとします。そこにたった一つのばい菌ですが、入っていると知っていたら飲むことができるでしょうか。完全な聖であられる神様にとって罪は大きい、小さいの問題ではありません。あるかないかの問題です。私たち人間は、すべて罪を持っています。その罪は、どんな薬でも、お金を積んでも、良い行いをしても、成績が良くても、スポーツができても、歌がうまくても、・・・・・私たちには消すことができません。神様だけが赦しを与えることができるのです。
イエス様は、罪の赦しを宣言されました。それは、病から救うためと、その原因にもなっている最大の問題である罪を取り除くためでした。それは、神様しかできないことです。私たちがイエス様を信じるということは、イエス様が罪を赦す権威を持っておられるお方、まことの神であることを信じることなのです。
またイエス様が、罪の赦しを宣言できたのは、将来自分が十字架の上で、その罪の罰を受けることによって身代わりに赦される道があるのと知っておられたからです。
罪を赦すお方はただひとり、まことの神様だけです。
イエス様は罪を赦す権威を持ったかた、まことの神様なのです。