CSテキスト2年目11月第2週目
教理シリーズ「救い」
「罪の本質」
【暗唱聖句】
ローマ6: 23
罪から来る報酬は死です。
しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
【概要】
前回は、罪と悔い改めについて学びました。今回は、もう少し罪の本質を学びたいと思います。
ものを盗む、うそをつく、いじわるをする、というのは勿論罪で、悪いことなのですが、罪の本質ではありません。正確には、それらは、罪の結果であり、罪の性質が、表面化したものです。罪はそれらを生み出す大元のことです。 その本質を知らないかぎり、本当の悔い改めも生まれません。
その罪の本質とは、“自分が神となる”という姿勢です。
アダムが罪を犯したときにした最も恐ろしく、おろかな行為は、神を神とせずに、神よりも自分を上としたことです。
創世記2:17 「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」
創世記3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
アダムが、犯したのは、神様のいいつけを破ったことですが、その内容は、自分が神のようになるということでした。
アダムが罪を犯したために、彼のみならず、彼が管理を任されていた地ものろいが及びました。
3:17 また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。
なぜ、アダムが罪を犯したのに、地までのろわれなければならなかったのでしょうか。
それほど、アダムの犯した罪は大きかったということです。
それは、神を自分のしたに置こうとした、置いてしまったという過ちでした。
アダムが犯した罪は、自分が神のようになろうとしたことです。
つまり、善悪を判断する存在は神おひとりであるのに、その立場に自分が立とうと思ったのです。
アダムが誘惑された行為は、自分が神となり、善悪を自分で判断しようする行いでした。
神の判断よりも、自分の判断。
神のことばよりも、自分の知恵を優先する。
神の御心よりも、自分の願望。
神の方法よりも、自分のやりたい方法。
これが原罪であり、罪の性質の本質です。
そして、その原罪を持った人類は、様々な悪を行うようになっていきます。
たとえばカインの殺人。これは恐ろしく、悲しい出来事ですが、アダムの罪の方が重いのです。なぜなら、アダムの罪、その罪の性質から産み出された結果が、殺人だからです。
今私たちがこの世界で見ている罪の結果は、このアダムの罪から生み出された結果と言えます。
ガラテヤ
5:19 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。
1:28 そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた。
ローマ人への手紙
1:29 すなわち、彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、ざん言する者、
1:30 そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、
1:31 無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっている。
1、放蕩息子(弟の罪)
聖書に出てくる有名なたとえ話があります。
放蕩息子は、自分の好き放題の罪にまみれた生活をした果てに、人生のどん底に行き着きます。社会的にも精神的にも最低の生活の中で、もう一度父の元に返る決心をします。再びもどった息子を、父は愛を持って迎え入れました。
この息子のみじめな生活の出発点はなんでしょうか。
それは・・
弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。ところから始まるのです。
つまり、わたしにあなたは必要ありません。自分の好きなように生きます。と本来認めなければならない存在から背を向け、自分の思いを一番上にしたその姿勢からです。
これが、人間の罪の本質を表しています。
人間は、本来(罪を犯して以来)自分の判断で生きたい存在です。
他の人のことが、特に神の言葉を聞き、従うのが嫌いです。
どうしても自分の思い通りに生きたいのです。
2、父の元に帰る
息子の堕落の始まりが、父から背を向けて、自分の判断で好きなように生きることであったら、立ち返ったのはどこからだったでしょうか。
父の元に返ったとき、息子はこのように告白します。
「私は、天に対して、あなたの前に罪を犯しました。」
彼は、自分の行った数々の悪行を謝ったのではありませんでした。また浪費したお金のことで、父の財産を無駄遣いしたことを悔いたのではありませんでした。
息子が悔い改めたのは、父に対してでした。
つまり、父への姿勢への間違いを謝ったのです。
そして、自分を召使同様にしてほしいと頼みます。つまり、今後は、あなた(父)の命令どおりに生きるようにしますと告白したのです。
悔い改めは、この姿勢、この心の方向転換です。
自分が人生の主人公ではなく、自分の上に神を認める、神を置きますと告白することです。
それは、アダムが創造されたときの、神との関係にもどることです。
もう一度、人生の主導権を神様にお返しすることです。
もし、放蕩息子が自分の使ったお金を父に返して、それで自分の過ちが赦されると考えていたら、それは、父が求めたことではなかったでしょう。それは、うそをついたら謝る、盗んだものを返す・・・といったことと同じで当然すべきですが、息子は本当の悔い改めをしたことにはならなかったのです。
むしろ、息子は父に対して行った自分のひどい態度、姿勢を悔い改めたのです。
放蕩息子は、自分の放蕩の罪を悔いたのではなく、父との関係について自分が犯したことから方向転換(悔い改め)したのです。
聖書の語る罪(原罪)は、神に背を向けて、自分の好きな道をあゆむことであり、
聖書の語る悔い改めとは、その生き方からの方向転換です。
あなたは、神様のほうに向いていますか。
神様との関係を第一にしていますか。神様よりも神様が与えてくださったものを頼りにしていませんか。
神様を自分の上に置かないで、自分を神様の上に置いていませんか。
自分の考えで、神さまからいただいたものを使っていませんか。
3、神様を自分よりも上に置く
神様を自分の上に置くということは、
自分がいいと思うことよりも、神様が良いとおっしゃっていることを優先することです。
自分がしたいと思っていることよりも、神様が願っていることを大事にすることです。
自分の判断よりも、神様の判断を聞くということです。
「神様、あなたはわたしに何をしてほしいと願われていますか」
「私は、こうしたいのですが、あなたの思いは何ですか」
そのような心で、祈りで、神様の声を聞きながら歩みましょう。
【放蕩息子の箇所】
ルカによる福音書
15:11 またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。
15:12 弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。
15:13 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
15:14 何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。
15:15 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
15:16 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
15:17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
15:18 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
15:19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
15:21 息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
15:23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
15:24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。