CSテキスト2年目7月2週目
「ダビデの三勇士」
【聖書箇所】Ⅱサムエル記 23章8節~39節
「スパイ」ではありませんでしたが、キャンプテーマの「スーパーエージェント」と呼ばれるにふさわしい聖書の人物を今回は紹介します。それはダビデと共に神に国の為に戦った勇士たちの話です。
ダビデはすばらしい神の王国を建設するために神に用いられた人物ですが、ダビデ一人の力によったのではありません。根本的には神ご自身のみわざによるものですが、多くの人々の協力によって造られたと言えます。
ダビデは神に愛されただけでなく、多くの有能な協力者に恵まれた王と言えます。なかでも、「ダビデの三勇士」は神の王国を担う者たちでした。
1. ダビデの三勇士
ダビデの王国を支えた親衛隊、あるいはエリート集団は、多くはダビデがサウル王に追われて荒野を放浪することを余儀なくされた時に出会った人々だと考えられます。
彼らはダビデと苦労を共にしながら、寝食を共にして戦ってきた仲間たちです。そうした集団の中にひときわ名をとどめている三勇士に目を向けてみたいと思います。
(1) ヤショブアム(23:8)
槍の名手であり、一度に8百人を刺し殺した勇士。
(2) エルアザル(23:9)
剣の名手であり、神の民が混乱の中にあったとき、ペリシテ人にいどみ、手が剣にくっついて離れなくなるまで戦い抜いて勝利した勇士。
(3) シャマ(23:11)
味方の者が逃げたにもかかわらず、ひとり自分の持ち場に踏みとどまって戦い、形勢を逆転させた勇士。
これらの三人には共通する面がありました。
(1) それぞれが大勢の敵を無効に回しての勝利であったこと
(2) それぞれが全力を振り絞っての大勝利であったこと
(3) それぞれが主の力によってもたらされた勝利であったこと
2. 忠実な心を持った三勇士
ダビデの三勇士は、戦いの名士というだけでなく、ダビデに対する愛と忠誠においてほかの人々よりも際立った者たちでした。そのひとつのエピソードが、ダビデのために水を汲んで来たという話です。
この時、ダビデは、アブドラのほら穴のところで、ペリシテ人との戦いに備えていました。
23:14 そのとき、ダビデは要害におり、ペリシテ人の先陣はそのとき、ベツレヘムにあった。23:15 ダビデはしきりに望んで言った。「だれか、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなあ。」23:16 すると三人の勇士は、ペリシテ人の陣営を突き抜けて、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。ダビデは、それを飲もうとはせず、それを注いで主にささげて、23:17 言った。「主よ。私がこれを飲むなど、絶対にできません。いのちをかけて行った人たちの血ではありませんか。」彼は、それを飲もうとはしなかった。三勇士は、このようなことをしたのである。
ダビデは戦いから戦いの日々の中で、昔のことが恋しくなったのでしょうか、自分の故郷ベツレヘムの井戸の水を飲みたい、と言いました。けれどもそこは今、ペリシテ人の最前線になっています。しかし三人の勇士はそのダビデの願いを聞いて、自分たちがその願いを叶える決心をし、命がけでその中を突き抜けて、ダビデのために水を持ってきました。
彼らはダビデに命令されてしたことではありませんでした。ただダビデが乾季のために喉が渇き、自分の故郷の水を思い出して、それを飲みたいと口にしただけでした。このことを知った三人の勇士たちは、自分たちのいのちを顧みず、ダビデのために距離として40キロ以上離れているところに水を汲みに行ったのです。これは彼らのダビデに対する忠誠心の表れであり、自分を無にした愛の行動でした。
3.神の国の三勇士
ダビデは、自分の発言を本気に受け止めて、命がけで実現させた部下たちの行為に驚き感動したことでしょう。しかしダビデの反応は注目に値します。彼はその水を飲まないで、主への注ぎの供え物にしてしまいました。地面に流したのです。
ここにダビデの、主に対する純粋さがあります。
「こんなに多くの犠牲を払ってもってきたもの、この最善のものを自分の中にとどめておくことは、とてもできません。あなたのものですから、お返しします。」という礼拝の行為をしたのです。
私たちは、「こんなに犠牲を払った水なのだから、地面に流すなんて三勇士に失礼だ。もったいない!」と思ってしまいます。けれどもその発想は、イエスに高価な香油を注いでしまった女のことを、弟子たちが「貧しい人に施すことができるのに、なぜもったいないことをするのだ」と言っているのと同じですね。
ダビデは、大きな犠牲を払ったものだからこそ、自分ではなく主におささげしたのです。
彼らの行為に対して、ダビデはこの「水を飲む」ことは「家来のいのちを飲む」ことだとし、そんなことは自分に許されることではないとして飲まなかっただけでなく、この水は主に対してささげられるべきものだと言ったことです。ここには、三勇士のいのちをかけた行為をダビデがどのように評価したのか、そしてなぜ彼らのことが聖書に記録されたのかを私達に教える重要な発言です。
当時も王国ではあるならば、家来の犠牲を王が受けることは当然でした。でもこの世の国々で普通のことであっても、神の王国においては、ダビデはあくまでも神の代理者としての存在にすぎません。三勇士のしたことは神への献身的行為として賞賛されなければなりませんでした。ダビデは、彼らの行為は王ダビデに対するものではなく、神への行為であると再確認したのです。
このエピソードが聖書に記載されなければならなかったのは、ダビデが彼らの行為を神にささげられるべき行為としてみなしたことが重要なことであったのです。
現代のクリスチャン(また教会)でも同じことです。私達の行い、奉仕、献げものは神様へのものであるべきなのです。決して人を喜ばす為のものではありませんし、リーダーを喜ばすものでもありません。それは神だけが主であり、王でありからです。
全ての栄光は神様だけがお受けになるべきであることを忘れないようにしましょう。また私達の心がいつも神様に向かっているようにしましょう。