CSカリキュラム3年目3月第2週目
初代教会シリーズ
「ひとつとする働き」
テキスト 使徒の働き11:19~30
【導入】
10章、11章を通じて、ユダヤ人の信者と異邦人の信者が一つになり、一つの教会になっていきます。そしてクリスチャンという呼びかたは、11章ではじめて登場します。
そのようになるまでの出来事から、私たちがひとつとなることの大切さを学びましょう。
1 ユダヤ人と異邦人をつないだ人たち(19-21)
19節に、アンテオケというイスラエルの北にある町において、ユダヤ人と異邦人が、一つになっていく様子が書かれています。
ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったのですが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語りませんでした。
覚えていますか、ステパノがユダヤ人によって殺されて、それからエルサレムに教会への迫害が起こりました。そのとき、信者たちはエルサレムから逃げていきましたが、8章においては、サマリヤの地域で信者たちが福音を宣べ伝えたことが記されていました。
今、サマリヤの地域だけではなく、北上して、海岸地方のフェニキヤ、そして地中海の島であるキプロス、そして現在のトルコに位置するアンティオケにまで広がっていきました。
イエスさまが、「地の果てにまで、わたしの証人となります。」と言われたとおりです。けれども、見てください、「ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。(19節)」とあります。完全にはイエスの証人となっていなかったのですね。彼らはまだ、ユダヤ人の聖書の解釈によって縛られていました。
けれども、キプロスやクレネ出身のユダヤ人が、ギリシヤ人にも語りかけ始めました。
そして宣べ伝えて、大ぜいの人たちが主を信じました。もし彼らの働きがなければ、使徒行伝はここで終わり、パウロのヨーロッパ宣教もなく、彼らはたんなるユダヤ教の一派になっていたのです。もちろん、はるか東に位置する私たちは、救われていません。
キプロスとクレネから来たユダヤ人は、第一に、ギリシヤ人に語りかけました。ふだんは語りかけることもないような人たちに、語りかけたのです。この人達の名前は聖書には残されていませんが、彼らがいなければ今私たちもイエス様のことを知ることはなかったかも知れません。
2 パウロと教会をつないだ人「バルナバ」
バルナバについて、みなさん覚えていますか?
使徒行伝3章の最後のところに出てきましたが、彼はレビ族のユダヤ人であり、自分の所有の畑を売って、その代金を教会に持ってきました。バルナバという名前は、「慰めの子」という意味です。
バルナバは、回心したばかりのパウロが、エルサレムの教会で受け入れられなかったときに、パウロのことを彼らに紹介しました。バルナバは、ずっとタルソで生活をしていたサウロ、つまりパウロを連れてきます。
パウロは、今はイエス様を信じましたが、その前は教会を迫害していた人でしたね。パウロと教会の間にもまだまだ隔たりがあったのでしょう。バルナバは、パウロが、このアンテオケで救われた異邦人へ奉仕をするために、最適の人であると判断しました。このように、彼は、ふつう人々が抱いている偏見を乗り越えて、愛の手を差し伸べてまし。また、対立している人々を結びつるような、平和を造る人でした。
イエスは、「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)」と言われましたが、まさにそのような人であったと言えるでしょう。
タルソは、ギリシヤ文化の色濃い町です。パウロはそこで生まれましたが、彼の両親はベニヤミン族のユダヤ人であり、彼は青年になってからエルサレムで聖書の学びをしました。ですから、聖書についてよく知っていること、またギリシヤ人がどのように考え、行動するかをよく知っている人がパウロであり、バルナバは彼が適任だと考えたのです。結果的に、このパウロがトルコとヨーロッパへ福音を運ぶ宣教者となり、多くの教会が建て上げられて、世界中に福音が広がっていったのです。
3 アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。
アンテオケというのは、当時の世界の三大都市の一つでした。もっとも大きかったのは、もちろんローマです。その次に、エジプトにあるアレキサンドリアが大きい町でした。そして三番目に大きかったのがアンテオケです。この町は、汚れと不品行にまみれた罪に満ち溢れた町でした。この町でキリスト者、つまり、クリスチャンという呼ばれ方が生まれたのです。教会が生まれた、信仰の中心地のエルサレムでなく、信仰とはかけ離れた罪に満ちたアンテオケで、クリスチャンという言葉が生まれたのは驚きです。
クリスチャンとは、もともと「キリストのような」という意味です。
不信者の人たちが、彼らを見て、そのように呼びました。彼らを見ていると、キリストのようだ、と思ったのです。当時の記録で、彼らはなんとお互いに愛し合っているのだろうか、と驚いている発言が載っています。ですから、彼らは、神から遠く離れていた異邦人であったのが、悔い改めて、キリストのように変えられたのです。これが、教会の最終的な目的であり、クリスチャンがキリストのようになっていき、神の栄光が現われることが最終的な目的です。
こうして、一部のユダヤ人やバルナバが、ギリシヤ人に愛をもって接し、奉仕をしたことによって、ユダヤ人と異邦人がキリストにあって一つになっていきました。
一致とは、愛による結びつきです。
ユダヤ人は霊的な奉仕を異邦人にしてあげて、異邦人は物質的な奉仕をユダヤ人に対して行ないました。(27-29)
その愛の結びつきが、信仰の一致とともに彼らを一つにしました。私たちが一つになる、一致するというのも同じことです。
私たちはそれぞれ異なる性格をもち、背景が異なり、年齢、性別など、いろいろな違いがあります。けれども、イエス様とつながっていることによって与えられる信仰が一つになっているのであれば、また、互いに愛し合っているのであれば、そこには麗しい御霊の一致があり、神の栄光が反映されているのです。それがクリスチャンと呼ばれる人たちの姿なのです。