CSカリキュラム 3年目3月3週目
初代教会シリーズ「ペテロの投獄と解放」
「ペテロの投獄と解放」
聖書箇所 使徒12章1節-25節
主題 迫害の中でも広がる教会のはたらき
イエスさまが以前ペテロに、次のように語られました。
「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。(マタイ16:18-19)」つまり、教会に天の御国かぎが与えられて、暗やみの力であるハデスは、これに決して打ち勝つことは出来ない、と言うことです。私たちは、イエスさまが言われたこのことの意味を、具体的に12章において見出すことができます。
1 義のための苦しみ 1-4
そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。それがユダヤ人の気に入ったのを見て、次にはペテロをも捕えにかかった。それは、種なしパンの祝いの時期であった。ヘロデはペテロを捕えて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。それは、過越の祭りの後に、民の前に引き出す考えであったからである。
ステパノの殉教に続いて、使徒の一人であるヤコブが殺されました。そして今、ペテロも殺されそうになっています。アンテオケにおいて、異邦人を多くの信者として持つ教会が出来ました。そしてアンテオケの教会は、もともと経済的に困窮していたユダヤ地方の教会に、援助物資を送ることに決めました。このように、エルサレムにある教会は、自分たちのところに飢饉という天災が降りかかったのですが、この同じ時期に、教会の重要な指導者も殺されてしまう、という危機に陥ります。
この迫害の手を伸ばした男はヘロデ王です。ヘロデ・アグリッパ1世です。彼は、イエスさまが誕生されていたときにイスラエルを治めていたヘロデ大王の孫でした。彼は、金を浪費し、放蕩していたどうしようもない男でしたが、あるきっかけで、ユダヤ地方の王になり、ユダヤ人によって目の上のたんこぶであった教会を迫害しました。素性も、動機も、悪に満ちていた男です。ヤコブを殺したあと、ペテロを殺そう牢獄に入れています。
この殺されたヤコブは、主を愛し、主に従う敬虔な人でした。彼は、使徒ヨハネの兄弟であり、イエスさまとともに宣教の旅を最後までいっしょにいた人物でした。それだけではなく、イエスは、とくべつに奇跡的な出来事を行われるとき、ペテロとヨハネとこのヤコブだけを連れて来て、彼らにだけ見せられることもされていました。ですから、イエスに非常に近かった弟子のひとりです。ヤコブに対し、イエスは、「あなたはわたしの杯を飲みはします。(マタイ20:23)」と言われましたが、イエスが死なれたように、ヤコブは殉教しました。
イエスは、弟子たちに次のように言われました。「そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。(ルカ12:4-5)」
2 熱心な祈り
話は、牢獄の中にいるペテロに移ります。
「こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。」
ペテロは牢に閉じ込められていましたが、神への祈りは閉じ込められていませんでした。目に見えない事柄に目を注ぐときに必要なのは、神に祈りをささげることです。コリント人への第二の手紙では、「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。 (コリント第二10:4)」と書いてあります。
ところでヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれてふたりの兵士の間で寝ており、戸口には番兵たちが牢を監視していました。ふつう、囚人は、片方の手が鎖につながれていますが、ここでは両手がつながれていたようです。そして、この二人の兵士のほかに、戸口にひとりの兵士がいて、また、外側の戸にもう一人の兵士がいました。合計4人です。そして、他に三組の兵士がいて、夜の間、交代制でペテロを監視していました。ヘロデはできる限りの方法でペテロが逃げることができないように厳重に捕らえていたのです。
すると突然、主の御使いが現われ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい。」と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。そして御使いが、「帯を締めて、くつをはきなさい。」と言うので、彼はそのとおりにした。すると、「上着を着て、私について来なさい。」と言った。そこで、外に出て、御使いについて行った。彼には御使いのしている事が現実の事だとはわからず、幻を見ているのだと思われた。彼らが、第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。そこで、彼らは外に出て、ある通りを進んで行くと、御使いは、たちまち彼を離れた。そのとき、ペテロは我に返って言った。「今、確かにわかった。主は御使いを遣わして、ヘロデの手から、また、ユダヤ人たちが待ち構えていたすべての災いから、私を救い出してくださったのだ。」
ペテロは、コリネリオに会う前に幻を見たとき、初めはその意味が分からなかったけれども、後で悟ったように、今、天使が助けに来たことも、牢屋を出てからようやく何が起こったのか悟ることができました。
ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行きました。彼が入口の戸をたたくと、ロダという女中が応対に出て来た。ところが、ペテロの声だとわかると、喜びのあまり門を開けもしないで、奥へ駆け込み、ペテロが門の外に立っていることをみなに知らせました。 ちょっとせっかちな女中ですね。門を開けてから、奥に駆け込めばよいのに、…。でも、彼女は、自分たちの祈りが聞かれたと思っておおはしゃぎだったのです。他の人の対応を見てください。
彼らは、「あなたは気が狂っているのだ。」と言ったが、彼女は本当だと言い張った。そこで彼らは、「それは彼の御使いだ。」と言っていた。しかし、ペテロはたたき続けていた。彼らが門を開けると、そこにペテロがいたので、非常に驚いたのです。なんと、彼らは、自分たちが祈っていることが聞かれているのに、聞かれたことを信じていませんでした。非常に驚いています。こうして見ると、彼らは信仰をもって祈っていなかったのではないか、と思わされます。
祈りというのは、神さまの考えておられることを変えてもらうようにお願いすることではない、と言うことです。神はもともと、ご自分がなさろうとしていることがあります。ここでの場合は、ペテロを救い出すということを考えておられたのです。けれども、神は、教会の人々に、またペテロ自身にそのことを分からせるために、教会の人々に祈る思いを与えられました。彼らの祈りに注目してください。5節に戻りますと、「神に熱心に祈り続けていた。」とあります。神に対して祈っていました。ただ単に、ペテロが救い出されることに焦点を当てたのではなく、神ご自身の性質、神のみわざ、神のみことば、神の臨在、神の真理など、神ご自身の中に自分自身をささげたのです。
神さまのみこころを知っていくこと、神のみわざを、神のみわざとして認めることができるようになることが、祈りの目的です。祈らない人は、神が何をしてくださっているのか見ることができないし、知ることもできないのです。もし祈っていなかったら、ペテロが御使いに腹をつつかれても、何も気づかなかったかもしれません。現に、そこにいた不信者である兵士たちは、御使いがいることを何も知ることができなかったのです。
そして、良く考えるとすごいことは、夢かもしれないと思っているペテロは、この御使いの言うことに聞き従っていることです。「くつをはきなさい」と言ったら、彼はくつをはきました。御使いが、「私についてきなさい。」と言ったら、彼は付いていきました。何も理解できていないのに、その声に聞き従った、というところに、祈りの答えがあります。神のなさろうとしていることに心を開いて、神のみわざが成し遂げられるようにするのです。
しかし彼は、手ぶりで彼らを静かにさせ、主がどのようにして牢から救い出してくださったかを、彼らに話して聞かせた。それから、「このことをヤコブと兄弟たちに知らせてください。」と言って、ほかの所へ出て行きました。
さて、朝になると、ペテロはどうなったのかと、兵士たちの間に大騒ぎが起こった。ヘロデは彼を捜したが見つけることができないので、番兵たちを取り調べ、彼らを処刑するように命じ、そして、ユダヤからカイザリヤに下って行って、そこに滞在した。 ローマの法律では、番兵は、囚人を逃がしてしまったら、その囚人に課せられているのと同じ刑罰を受けなければいけないことになっていました。そのため、彼らは殺されました。
3 神の裁きと教会の広がり
ヘロデ王は、教会の働きをやめさせようとしました。けれども、神のみこころを彼は止めることができませんでした。ヘロデによってヤコブが殉教し、またペテロが投獄され、また、背後には経済的困窮もありました。
このように、教会が、窮地に立たされていても、主のみことばは盛んになり、広まっていったのです。教会は天の御国のかぎを持っています。暗やみの力は、決して教会を踏みにじることはできません。