CSカリキュラム3年目3月第4週目
初代教会シリーズ
「神にさばかれたヘロデ王」
l テーマ「栄光は神に」
l 使徒の働き:12章20~25節
l 暗唱聖句:ヤコブ4:6「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」
【導入】
以前エリヤという預言者について学びました。バアルの預言者達との戦いでたった一人で勝利したエリヤはなんてすごいんだろうと思うかも知れません。でも本当は「エリヤがバアルの預言者達に勝った」というよりも、エリヤの信じている「神様が勝利した」というべきですん。注目すべきはエリヤというよりも、エリヤを通してご自身の御業をなした神様なのです。
【予備知識】
聖書の中には何人か「ヘロデ」という名前の人物が出来てきます。
1. ヘロデ大王
最初に出てくるヘロデは、イエス様が生まれた頃ユダヤの王として即位していた人物で「ヘロデ大王」と呼ばれています。彼が幼子イエス様を殺そうとしたことでイエス様一家はエジプトに下っていって、ヘロデ大王が死ぬまで、エジプトで生活をされたということが、マタイの福音書2章書かれている記録です。
2. 「国主ヘロデ-ヘロデ・アンティパス」
マタイ14章1節にはイエス様の噂を聞いて「バプテスマのヨハネがよみがえったのだ」と言っている「ヘロデ」という人物です。彼は、ヘロデ大王の4番目の妻が産んだ子供です。イエス様が十字架に掛かられる前にエルサレムでの尋問をしたのがこの人です。
3. 「ヘロデ・アグリッパ」
そして今日の聖書箇所に登場するヘロデ王はヘロデ大王の2番目の妻による孫です。
ヘロデ・アンティパスから見れば「甥」という関係になります。
このようにヘロデは王の家系で、随分多くのイスラエルの王様が彼の身内から出ています。大きな力を持っていましたが、イエス様を殺そうとしたり、バプテスマのヨハネを殺したりしていることから見られるように、自分に対して協力的ではないと判断される、敵対者に対する残忍さを持っている一族です。
そして、今回登場するヘロデ・アグリッパもやはり同じような性格を持ち合わせていました。使徒の働き12章1、2節には「そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。」とあるように、ヘロデの残虐さはそれで終わるのではなく、12章3節にあるように、次にペテロにも手をかけようとしました。(前回学びましたね)
この時、ペテロは御使いの導きによって牢から出られたのですが、ヘロデ王はその責任を番兵達に負わせ、彼らを処刑するように命じています。そしてこのような出来事の続きか今日の使徒の働き12章20節からです。
【ツロとシドンの人たち 20節】
ヘロデの残忍さはその当時多くの人に知られ、恐れられていました。
20節に「ツロとシドンの人々に対して強い敵意を抱いていた」とあります。彼らもヘロデ王の標的にされないとも限りません。ツロとシドンの地方は当時ローマの統治によるシリヤ州に属する地中海沿いにある町です。また20節の後半にあるように、この地方は王の国から食料をもらっていました。このまま王から嫌われていると、彼らの食料がもれなくなるかもしれません。ですからツロとシドン人々はヘロデと嫌われないようになるためにエルサレムまでの長い距離をやってきたのです。
ヘロデ王は良い王ではありませんでした。人々はヘロデの権力に、ただ恐れから従っていただけでした。ヘロデが王として治めていたのは、以前からヘロデ家に属していたということと、もし逆らったら自分が何をされるかを恐れて嫌々ながら王様として認めていたに過ぎなかったのです。
1 ヘロデへのさばき
そしてそのような悪王ヘロデに対して、神様からのさばきがくだりました。
この日、多くの人々を目の前にしてヘロデ王は演説を始めました。その演説を受けて民衆は「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けたのです。まさに、ヘロデ王のご機嫌取りのお世辞を民ははじめたのです。
23節の表現によると、この後「主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである」と書いてあります。
ヘロデ王が打たれた理由ははっきりしています。「神に栄光を帰さなかったから」ということです。
ヘロデ王は「神の声だ。人間の声ではない。」という民衆のことばをニコニコしながら受け取って、そのようにいわれることを嬉しく思い、受け入れたのです。
彼は自分が「神」と呼ばれることについて恐れの感覚はなく、かえってそれを歓迎しているということで、ここに明らかに高慢な姿が現れています。そのような彼の態度に本当の神様からのさばきがくだり、彼はいのちを落としたのでした。
2 “たかぶり(高慢)”
ヘロデが神様のさばきとしていのちを失ったということが分かりますが、聖書は「ヘロデが神に栄光を帰さなかったから」と書いてあります。
もちろん、それ以前のヤコブを殺したこと、ペテロにも手をかけて殺そうとしたことなどイエス・キリストを信じる者に対する迫害も、彼にさばきがくだされた事に関係あるでしょう。しかし彼の死の直接的な理由として聖書が語っているのは、彼が民衆から神扱いされたことで彼がそれを良しとしたことによるのです。
箴言16章18節に「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」とあります。
聖書は多くの箇所で人の高ぶり、高慢に対して警告を与えています。それはその人を滅びに向かわせるのだといいます。まさにヘロデのこの出来事はこの箴言のみことばによって説明されています。
3 謙遜な人
ペテロの手紙第一5章6節「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」
私たちが何か人から注目されるに値のある何かを持っていたとしても、それは全て神様からの賜物ですね。そして神様がそれを取り除こうと思えばいとも簡単に私たちのところからそれは去ることができるでしょう。
ですから神様の前に私たちはへりくだるのが当たり前なのです。
l ペテロの手紙第一5章6節「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」
l 箴言3章34節の「あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける。」
l 箴言18章12節の「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」
l ヤコブの手紙4章6節「しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言れています。『神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。』
このように高慢に対すると同時に、謙遜への勧めを聖書は繰り返し語っているます。
神様の前に謙遜になれなかったヘロデ王はいのちを落とす結果となりました。全ての栄光は神様に帰されるべきものでした。
【まとめ】
ヘロデ王は随分残虐な王でありました。彼が民衆から神扱いされたという出来事が起こった時、ヘロデが神を恐れることなく、本来神様に帰されるはずの栄光を自分のものとしてしまったことで、彼はいのちを落としてしまったのです。
聖書は、何度も「高慢」、「高ぶり」に対する警告を語っています。
私たちは、このヘロデ王のように人々からの称賛を心良しとすることがないようにしましょう。かえって私たちの何らかの働きによって、人々から注目を受けたときにはその働きをさせていただいた神様に栄光をお返しすることが出来るようになりましょう。
本来なら注目され、誉め称えられるべきは唯一の神様であり、そのひとり子なるイエス・キリストです。神が人となってこの地上に降りてきてくださったことが最大級の謙遜です。このお方の素晴らしさこそ他の何にもまさる素晴らしさです。イエス・キリストこそ私たちの人生の全ての全てです。
もし私たちが何らかの形で人目を引くことに用いられた場合、私たちを通してイエス・キリストが証しされるようになりたいですね。また、私たちが誰かのすばらしい働きに興味が向けられたときには、その人を通してイエス・キリストを見るようにしましょう。
そうして全ての栄光がこの天と地を創造された唯一の神であり、私たちのために最大級の謙遜謙りをもってこの地上に降りてこられ、十字架上でいのちをも捨ててくださった御子なるイエス・キリストに返されるように祈りましょう。
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【あるクリスチャンの証し】
私がギターを始めたのは中学2年からです。高校に入ってからはバンドを組んでベースに転向しました。チョッパーという特殊な弾き方があって、それに対するあこがれからベースをやっていたのです。楽器をいじらない日は恐らく全くなかったと思います。継続は力なりとはよく言ったもので、どんどんうまくなって行きました。高校卒業後、専門学校2年目の夏に私は信仰を持ちました。教会にはちょうどベーシストがいなかったのです。すぐにバンドメンバーとして声がかかりました。当時、教会の賛美バンドで要求される演奏の技術というのはそんなに高くありません。ですから練習するにはするのですが、そんなに本腰入れてみっちりってことはほとんどありませんでした。信仰持って数ヶ月の頃で、賛美がどういうものなのかの学びもしてはいませんでした。「賜物」という理解に関しても乏しく、それでいてただ楽器を弾けるからという理由で、声がかかってやり始めた教会の賛美バンドでした。そして、私にとっての最初の奉仕がクリスマス関係の集会で、それに向けての練習をしていました。当時、 私は教会における賛美の奉仕を軽く見て、ベースを弾ける自分がすごいという勘違いから「ちょろい、ちょろい」「自分だからできるんだ」なんていう思いで、まさに適当に弾いていたような感じです。要するに高慢だったのです。なにしろ、出来る自分がすごいと自ら思っていたわけですから。それから数日後、他の教会員と一緒に教会のクルマで買い物に出かけたときの帰りに、事件が起きました。スライドドアのレールに左手の薬指のわきを挟めて強か切ってしまったのです。出血もそれなりにあって、しばらく止まりませんでした。左手は元を押さえる指でして、指を怪我した私は即ベースを弾くことが出来なくなってしまったのです。スライドドアのレールに指を挟めたのは自分の不注意ですが、それ以上に楽器演奏に関する私の高慢な思いへの、神様からの警告です。この時の怪我を通して自分自身の愚かさと高慢さに気づき悔い改めました。信仰持つ前からやっていた楽器ではありましたが、その背後には神様の主権に基づく賜物として与えられていた技術だったはずです。それを私は「自分のもの」と勘違いしていたのです。そうして「出来る自分はすごい」と思っていたのです。それならもうその賜物は取り去られても仕方のないことだと思いました。 クリスマスの集会当日までそんなに間があるわけでもありません。この怪我により私はクリスマスに奉仕をすることは無理だと判断し、怪我の状態を他のバンドメンバーに伝えて相談したところ「残念だけど、今までもベース無しでやってきたし、怪我ならしょうがないから」といってくれたことが慰めになりましたが、この時私は「もう二度と与えられている賜物で高ぶることがないように」と決心したのです。するとどうでしょう。それから何日もしないうちに、カサブタがぺろっと剥がれて治ってしまったのです。外観上、跡は残っているものの楽器を弾くことについては、ほとんど影響ないような状態になったのです。いや、神様がいやしてくださったとしかいいようのない奇跡を私は体験しました。そうしてクリスマスの集会において私は神様が与えてくださったベースという楽器で神様をほめたたえることが出来たのです。
もしもこの時、私が悔い改めることなく、自分の高慢さについても気づかなかったらおそらくクリスマスに楽器を弾く奉仕は出来なかったことでしょう。それどころか、今後一切ベースを弾くことが出来ない状態にもされたかもしれません。しかし、逆にそれが残され、用いることが出来る状態にとどめられているということを考えると、神様は私に対してあわれみをかけ、何らかの形で用いようとしてくださっているということだと理解しています。
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参考・引用:「豊明希望教会」公式サイト 杉本博徳牧師メッセージ集