CSテキス3年目72週目

出展元:こひつじ

 

「エレミヤ- 国外追放」

 

エレミヤは、ユダが最も困難な時代に、民に向かって語りました。民は偶像を礼拝し、神に喜ばれない生活を送っていました。エレミヤは涙の預言者と呼ばれています。民は、彼らの罪に値する罰を受けるのだったが、エレミヤは、その民のために深く嘆き悲しみました。エレミヤは、23章において、ご自身の民を治め助ける、やがて来られる「牧者」について語ります。エレミヤは彼の名さえ語りました。その名は、「主は私たちの正義」と呼ばれますが、これはイエスのもう一つの呼び名です。(23:5,6

エレミヤは、やがて来られる「牧者」(イエス)は、神とその民との間に、新しい契約をもたらす、と言いました。(31:31:34)。これらの新しいことばは、アブラハム、モーセ、ダビデに与えれれた約束を完成するものです。神の救い主についての約束を、はるか前に語られていたのです。神は、ご自身の民のために、ご計画をもっておられます。そして、神の語ったことは、必ず実現するのです。

 

【テキスト】 

 エレミヤ 211-10、 2 列王記 171-23251-21

 

ヘブル3:15 それについて、こう言われている、「きょう、み声を聞いたなら、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」。

 

導入

EXILE(エグザイル)”というダンスグループを知ってる?EXILE”とは「追い出される・放浪する」という意味があるんだ。キミは叱られてお家を追い出されたり、部屋から追い出されたりしたことはない?もしそうなったらどんな気持ちになるかな~?北イスラエルも南ユダもイスラエル人たち、実は自分の住んでいる国から追い出されちゃうんだ!なんで~?

 

ポイント1

 

北イスラエル王国はアッシリヤに滅ぼされてしまいました(2列王記171-23)

北イスラエル王国の首都サマリヤでホセアが北イスラエルの王様になりました。北イスラエルの人々は何回王様が変わってもまことの神さまを礼拝することをせずいつも偶像を拝んでいました。イスラエルの人たちは神さまがモーセを通してエジプトの奴隷生活から救いだしてくださってから今まで必要なものはすべて与えてくださり、また敵から守ってくださったにもかかわらず、まことの神さまを知らない外国の人々が拝んでいた偶像を拝み仕えていたのです。

神さまはイスラエルの人々がこのようなまことの神さまを忘れ、偶像の神々を拝んでいる姿を見て何度も何度も預言者を通して悔い改めて神さまの元に戻ってくるように、そうでないと滅びてしまうと警告されました。けれども人々は預言者の言葉を聞こうとせず、バアル像やアシェラ像を作っては拝み、占いやまじないなど、自分たちがやりたいように、好きなことをして生活していました

ついに、神さまがしもべである預言者たちを通して警告されていたようにイスラエルが滅ぼされてしまう時がやってきました。アッシリヤがイスラエルに攻めてきたのです。アッシリヤの王様は北イスラエル王国の首都サマリヤを 3 年間包囲した後、ついにサマリヤを攻め取ってしまいました。イスラエルの人々はアッシリヤへと連れて行かれ、今まで住んでいた場所には誰も知らない他の国の人々が住んでしまいました。ついに北イスラエル王国は滅亡してしまったのです!

6節)イスラエル人が捕らえ移された場所ハラフ(北部メソポタミヤ、カランの近くと言われる)、ハボル(ユーフラテス川北方の上流地域)、ゴザンの川(ユーフラテス川の一支流)、メディヤ(カスピ海南方とメソポタミヤ東方の地域)

14節)「うなじのこわい者」…こころをかたくなにする者の意

 

 

ポイント2

 

 南ユダ王国にもバビロンが攻めてきました(2列王記251-4、エレミヤ211-10)

 

北イスラエル王国が滅びてから約 130 年たった頃、南ユダ王国にもバビロンの軍隊が攻めてきました。南ユダ王国の人々は王様によって神さまに立ち返ることもありました。しかし、やっぱり南ユダ王国の人々も最後は神さまを忘れて偶像礼拝をしてしまうのです。バビロンの軍隊はユダ王国を滅ぼすためにやってきたのです。多くの町や村が焼かれ、ついにバビロンの王ネブカデネザルにエルサレムの町は取り囲まれてしまいました。戦いで多くの人たちが殺され、食べ物はなくなっています。ユダの王ゼデキヤは青ざめた顔で預言者エレミヤに尋ねました「本当にエルサレムの町は滅ぼされるのか?」エレミヤは答えました「そうです。ユダの人たちは神さまの招きがあったにもかかわらず偶像から離れないで罪を犯し続けてきました。ですから神さまがこの国を滅ぼされるのです」ついに、エルサレムの石の城壁が崩されバビロンの兵隊が雪崩のように攻め込んできました。

 

8,9 節)神さまはユダの人々が神のみ言葉に従いへりくだってバビロンに投降するものは生き、かたくなにエルサレムに留まろうとするものは死ぬと言われた。ここに神の憐れみと信仰が働く必要性を見る。

 

ポイント3

 

 南ユダ王国はバビロンに滅ぼされてしまいました(2列王記255-21

ゼデキヤ王はこっそりと逃げようとしましたがすぐに捕まってしまいました。そして息子たちは殺され、自分は目をくりぬかれてバビロンに奴隷となって連れていかれてしまいました。王宮も神さまを礼拝する神殿も壊され燃やされ、神殿の中にあった立派な礼拝の道具や宝物は全部バビロンに持っていかれました。大勢の人が滅ぼされ残ったのはわずかな人たちです。その残ったわずかな人々も遠いバビロンの国に連れて行かれることになりました。遠くの知らないバビロンの国でこれから奴隷として働かなければならないのです。ユダの人々の心は悲しみと不安でいっぱいでした。

 

ポイント4

 

回復の預言

しかし、このひどい裁きの中でも、神は御自分が民に与えた約束の地でのユダの復興を約束されたのです(エレミヤ29:10)。

 

 

キリストの預言

エレミヤ23:5-6には来るべきメシヤ、イエスキリストの預言が書かれています。エレミヤはこのメシヤをダビデの若枝と呼び、(5節; マタイ1章)、公義と正義をもって治める王として描いています。キリストこそが、選ばれた民に救いを与え、やがてイスラエルに真のメシヤとして認められる方なのです(6節; ローマ11:26)。

 

新しい契約 31:33

33節に「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書き記す」とあります。それは外からの義務や強制によるものではなく、内からの意志ー自発性、主体性、自立性ーによって神の律法(みおしえ)を守り、従おうとすることです。この内面的な意志によって、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」ことが可能となる契約です。

 

 完全な赦罪があります。34節に「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さない。」とあるように、完全な赦罪(しゃざい)があるということです。これは本来契約関係においては絶対にあり得ないことなのです。律法なしの契約というものはありません。律法は良いものであり、正しくなければなりません。しかもその律法には契約の内容が記されています。問題はそれを守り切れないという人間側の矛盾性にあります。使徒パウロはそのことで悩みました。ローマ書7章にはこの矛盾と葛藤の悩みが記されています。人間の罪の現実性と矛盾性に対する深い掘り下げなしには、神の「赦罪」を正しく理解することは困難です。神の罪や咎の赦しは「二度と思い出さない」(記憶しない)という驚くべき恵みです。この神の絶対的な恩寵としての「赦罪」に触れるときにはじめて、私たちは神に対しても、人に対しても「謝罪」が可能となり、新しいかかわりが生まれるのです。これは神の奇蹟なのです。

 

 

結論

 

 神さまに罪を犯して生きると私たちは不自由になります

神さまはずっとイスラエルの人たちに悔い改めてみ言葉に聞き従うようにと語り続けられました。神さまのみことばに従っていくことは不自由になることのように思うかもしれませんね。でも実はそうではないのです。神さまのみことばに従っていくことは、私達が交通ルールを守ることによって安心して道を歩くことができるように、自由と安心と喜びをもって生きる道なのです。反対に神さまを無視して、自分勝手に生きていくことは、交通ルールを無視して高速道路を歩くようなもので、いつも危険で不安と恐れで実は不自由な道なのです。   

神さまを無視して偶像礼拝の罪を犯し続けた結果、イスラエルの人たちは本当の神さまに戻れなくなっていってしまいました。そして、ついに国は滅び他の国に捕らえ移されてしまいました。実は神さまを無視して生きることはとても「不自由」なこと。きみは神さまに罪を犯しているために、苦しかったり、不安だったり、やめられなくなったりしていることはないかな?キミの心や行いが「不自由」になっていることはない?

 


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